不死はその日、月を見る
たくさんの人が、時の流れの中に消えていった。
どんな思い出も、百年経てば風化した。
でも、きみを忘れたことは一度も無かったんだ。
「──店長、御門店長っ!」
残暑消えない九月中旬の昼下がり。
町外れの小さな喫茶店『ムーンダスト』は閑古鳥が鳴いていた。
選りすぐりの店内BGMに耳を傾けてくれるのは、常連客のおじいさんただ一人。
カウンターも、他のテーブルも、座る人がいないためか、どことなく寂しそうなたたずまい。
僕の目の前では、ダークブラウンに染めたショートヘアと快活な笑顔が特徴的な女子大生──石上美佳さんがカウンターの上に伝票を差し出している。
その笑顔には少し心配の色が見て取れた。
「なんだい、石上さん」
「注文です、Aランチお願いします。……体調悪いんですか? ここ数日なんだかずっとぼぉーっとしてますよ」
そう言われて、混ぜる手が止まっていたコンソメスープをちらりと覗きこむ。
香ばしい匂い沸き上がる水面には、少し陰った顔のヒゲ親父が映っていた。
「はは……うん、大丈夫だよ。もうすぐ中秋の名月だからね」
笑みを作る。
この時期になると、色々と思い出していけない。
「確かにもうすぐ満月ですけど……」
すごく腑に落ちない表情の石上さんを尻目に、僕は話を続ける。
「よく勘違いしている人もいるけれど、中秋の名月っていうのは絶対に満月というわけじゃないんだよ」
「そうなんですか?」
「中秋は旧暦の八月十五日のことだけれど、月が満月になるためには絶対に十五日必要ってわけじゃないからね」
実際は新月から満月になる日数には一日半ほどの振れ幅があったりするんだよね……。
なんて、タメにならない蘊蓄は重要じゃない。
もっと大事なコトがある。
「でも、満月じゃなくてもね、中秋に見られる月は本当に綺麗なんだよ。それこそ他のことが手につかなくなっちゃうぐらいに」
「はぁ」
うん、すごく興味なさそうな相づちをありがとう。
「月の隅々まで見通せるほどに澄み渡っててね……あ、そうだ。石上さんも一緒に見るかい? 綺麗に見える場所を知ってるんだ」
しかし、その問いかけに対する石上さんの答えは一歩分の後退だった。
「……いつもそんな風に女性を口説いてるんですか?」
「え? あー、ごめん。はは、この話になるとどうしても力が入っちゃってね。というか、なんだって僕がナンパ男みたいになってるんだい?」
「だって店長、外を歩く時は毎回違う女性を引き連れてるらしいじゃないですか。大学でも噂されてますよ。人、妖魔問わず美人をとっかえひっかえしてるやせ形の男がいるって」
「あの人たちはただの友だちだから。これでも一途さには自信があるんだよ?
……っと、Aランチセットできたよ。行っておいで」
「はーい」
石上さんは営業スマイルに転じて、僕から離れていく。
何という切り替えの早さ。そこが僕にない彼女の良さだろう。
これまでの会話はおじいさんにも丸聞こえだったらしく、肩をすくめられた。
それにしても昔と比べたら婚姻に関してずいぶん自由のきく世の中になったものだ。
かつては独りでいたくてもやれ跡継ぎを作れだの、彼女を書類上の妻としていいから別の女を囲えだの、本当にうるさかった。
少し女性と話をしていただけで結婚騒ぎになったこともあったっけなぁ。
今思えば──もう思い出せるほども頭の片隅に残っていないけれど──彼らも必死だったのだろう。血というのは、僕らが生きていた時代において何より重要視されていたものだから。
けれど、許してほしい。
あの輝かしいひとに魅入られたなら、それはきっと仕方のないことなのだ。
からんからん。
ドアにつけたベルが再び沈んでいきそうになった思考を浮上させる。
お客さんが来たようだ。
しっかり仕事しないと、また石上さんに心配されてしまう。
「いらっしゃ……」
心臓が大きく跳ねた。
──そこには、まばゆい月があった。
人形のように整った顔立ちと腰程まで伸びた濡羽色の髪は、僕を釘付けにして離さない。長いまつげに守られた漆黒の目は、どんな珠さえも適わないだろう。身に纏っている温かい色合いのカーディガンとロングスカートが彼女の奥ゆかしさをさらに引き立てる。
あの頃とは全く違う服装だけれど、僕にはすぐ分かった。心があの人だと叫んでいた。
「……かぐや」
口から名前が漏れる。
少女の美しい顔が強ばった。
あぁ、やっぱりだ。
目線が右往左往した後、観念したようにさくらんぼ色のくちびるから息を吐いてこちらに近づいてくる。
僕もカウンターから出て彼女を迎える。
あぁ、あぁ、何という奇跡だろう。
今まで離ればなれになっていた二人は、数多の時を経て感動の再会を果た──
「──っ!」
衝撃。
視線がぶれる。
次いで、熱。
目の前には小さな右手を振り抜いたかぐやの姿。
叩かれたと気づくのにそう時間はかからなかった。
「ちょっと、店長に何するんですか!」
石上さんの鋭い声が飛ぶ。
少女は逃げるように身を翻す。
長い髪が視界を覆い尽くした。
「ま、待ってほしい!」
慌てて掴んだ腕は柳のように細い。
必死だった。
ここで引き留めないと、一生彼女に会えないような気がした。
顔は見えない。
ただ、その肩は小刻みに揺れていた。
「話を、してくれないかな。少しの間だけでいい。君の声を聞かせてほしい」
「……………………ばかなひと」
鈴の音が聞こえる。
僕はその後ろ姿をただ呆然と見送ることしかできない。
……これは夢なのだろうか。
答えは頬に広がる痛みが教えてくれた。