陸の人魚と海の恋
瞬きの間の平穏で良い。あまりに疎ましい日常から逃避がしたかったのだ。
従者や兄弟、側近くに侍る者たちの無数の目をかいくぐり、フルクトゥアトは城を抜け出した。自らそうしようと思ったのは初めてのことだった。
たったひとりで出た城外には昏い城の中にはない、眩い世界が広がっていた。久しぶりに明るいところへ来た気がする。さんさんと降りそそぐ太陽の光を一心にあびて、フルクトゥアトは物思いにふけった。眩い光が膿んだ体を洗ってくれるような心地がした。
しかし、フルクトゥアトは知らなかった。そうして身を晒し続けた太陽の熱がどれほどに苛烈なものなのか。思索にふけり、長い間空を見上げていたつけはたやすくその身に訪れる。ぐらぐらと自分の体がゆらぎ、眼の前が白むのを感じた。もうろうとした意識は掴める手もないままに白く染まった視界の底へと沈み落ちていった。
目を覚ますと目の前に女の顔があった。ひどい耳鳴りがしている。ちかちかと明滅する視界を何度もまばたきして正常に戻しているうち、自分を覗きこんでいるのがまったく見知らぬ女だと気づく。
ぼんやりその目を見返していると、海面を白くきらめかせる太陽を背負って、女は安堵の笑みを満面にひらめかせた。
「起きたか。死んでしまったかと思った」
まっ白な歯をのぞかせて笑う女は、心底安心した顔でフルクトゥアトの頭をなでた。
熱いくらいの体温が伝わり、フルクトゥアトは困惑する。
「ずいぶんと身体を日干ししていたのね。波間に沈みかけたおまえを私が岩場へ上げたとき、お前の上半身は熱した石のように熱くなっていたよ」
背中にごつごつとした岩の感触があるのを認識する。一度起き上がろうと試みたがくらくらとして起きられなかった。まばたきを繰り返し、朦朧とする頭をなんとか動かしながらフルクトゥアトは少しずつ状況を理解した。
「きみが助けてくれたのか?」
尋ねると、女はわずかに首をかしげてやさしく微笑んだ。
「まだ身体を動かすにはつらそうだね。そのまま落ち着くまで休んでいくといいよ。じきに陽も傾いてくるから」
岩場にしがみつくようにしてフルクトゥアトを覗きこんでいた女は、するりと身を落として海へ潜りこんでしまった。置いていかれたのかと一瞬フルクトゥアトは不安になったが、女はすぐに戻ってきた。
水びたしになった上半身を岩の上へ引き上げて、長くうねる珊瑚色の髪を器用にしぼってフルクトゥアトの身体を湿らせる。
「そうしてずっと熱した身体を冷ましていてくれたのか?」
髪とそろいの赤褐色の目を見つめながら、フルクトゥアトはたずねた。
女は困った顔をする。
「こんな日差しのもとでずっと素肌をさらしていたら、倒れもするよ。お前は波遊びをしらないの?」
呆れたように言いながら頭をなでてくれる女の手はやさしい。太陽の日差しのような、熱いのにずっと触れていたくなるような熱のある手だ。
フルクトゥアトは不思議な心地に包まれて目を閉じた。
「きみの手は太陽のようだな。私の周りにいる者達の手は冷たくて、ときどき無性に払いのけたくなるよ」
女はなんの言葉も返さなかった。ただフルクトゥアトがやめないでほしいと内心望むままに、やさしく頭を撫で続けてくれた。幼い子どもの頃でさえ、こんなにやさしく触れてもらったことがあっただろうか。誰も彼も、自分に強くあれ、堂々とふるまえと一方的に訴えるばかり。一歩距離をとったところから見上げてくる彼らは自分を同じ所へはおろしてくれない。上の兄たちも同様だ。一方的に妻を娶れと押し付けて、見知らぬ場所へと追いだそうとする。彼らはたったひとつの椅子を手に入れるのに夢中で、邪魔者ばらいに躍起になっている。
いつの間にか唇を強く噛みしめていたらしい。憂い顔の女がフルクトゥアトの唇に静かに指をおいた。
「そんなに噛みしめたら血が出るよ」
戸惑うフルクトゥアトが見上げると女は微笑んだ。赤い唇が親しげに持ち上がる。
「お前にもきっといろいろ悩みがあるんだね。だけど身体は大切にしないといけないよ。こんな陸近くまで泳いできて、私以外の誰かに見つかっていたらどうするつもり?」
フルクトゥアトは首を傾げた。
女はふっと息をはくように笑う。
「言ったところで私の言葉はお前にはわからないだろうけど。なんだか危なかっしくて言わずにはいられない」
狭い岩場に女は全身すっかりよじ登ってフルクトゥアトの隣に横座りに座り込んだ。
女の下肢にぼんやりと目をやる。上半身と同じ、水を弾いた陸色の肌。鱗ひとつない。その異様さに気づいてフルクトゥアトは息を飲んで身をこわばらせた。全身の血の気が一気に引いていく。
「やっぱり気づいていなかった」
腰から下、二股に別れた下半身を見せつけるように伸ばし、女は呆れた顔をする。
女が口にする言葉はフルクトゥアトにはわからない。それはフルクトゥアトにとって異国の言葉だからだ。
太陽にやられ耳鳴りがひどかったとはいえ、自分はどれだけぼんやりしていたのだろうと思う。
フルクトゥアトの視線は、女の上半身と同じ肌の色をした下肢に釘付けになっていた。
鱗のない肌。尾ひれのない下肢。
陸の者。
――人間だ。
自分たちにとって害のある種族。
蒼白するフルクトゥアトがおかしかったらしい。女は声をあげて笑った。
「情けない顔だね。男だろう? 他種族の女を見たくらいでなにさ。とって食うわけでもなし」
舌の根の凍ったフルクトゥアトがただ見上げるのを見返して、女はふと真面目な顔をつくった。
「身体が落ち着いたら海底へお帰り、マーマンのお兄さん。あたしはお前をとって食ったりしないけど、他の誰もがそうとは限らないんだよ」
マーマン。
フルクトゥアトの耳はその単語だけ拾った。それが自分を指す呼び名だとわかった。マーマン。人魚。人間は自分たちをそう呼ぶ。
女はふっと微笑む。
その笑みにフルクトゥアトの心がわずかに動いた。自分を引きつける裏のない笑顔。この女はよく笑う。太陽のようにも、海の女神のように慈悲深くも笑って見せる。
ほんの少しほどけかけた緊張を取りもどさせるように女の手がフルクトゥアトの頭に伸びた。はっと引きつったフルクトゥアトの表情を意にも介さず、女はその頭をやさしく撫でる。撫でられた頭がひどく熱い。
「怯えられると、切ないな。あたしはお前がきらいじゃないみたいなんだけど。まぁ、いいや。気をつけてお帰り、お前の世界へ」
女の熱を持った手が離れていく。
フルクトゥアトはなえた手をとっさに動かし、離れる女の手を追おうとした。なぜだかは自分でもわからない。しかし相手が逃げる方がはやかった。浜の砂のようなやわらかな色をした手はするりと離れ、次には女の身体が海へと消えた。
だるい身体を無理やり起こし、フルクトゥアトが女の姿を探すと、女ははるか先の波間にとぷりとその珊瑚色のあざやかな髪を出していた。
きらめく海面に浮く濡れた顔がにやりと笑い、岩の上のフルクトゥアトを強い眼差しが射抜いた。
「さよなら。二度は溺れるんじゃないよ、助けた男に死なれたんじゃたまらないからね」
白い歯をのぞかせて女は笑い、一度海に潜ると海面を割るように水中から二股の下肢を伸び上がらせ、再び沈んで泳ぎだした。浜へむかって泳ぐ姿は尾ひれを持つ者のようにのびやかで、フルクトゥアトは目を奪われた。
遠ざかっていく後ろ姿をフルクトゥアトはどこまでも呆然と、視線で追いかけ続けた。
女がはるか彼方に去った後もそこから動けなかった。太陽が傾き、海面は徐々に朱に染まる。
フルクトゥアトから意識を奪った強烈な太陽の熱も海の向こうに沈んでいく。
萎えた身体も今は体力を取り戻していた。
フルクトゥアトはそれでも女が助けてくれた岩の上を動けなかった。
あざやかな珊瑚色、目の眩む笑顔が目の奥に焼きついている。
闇に沈む海面が一面波打つ黒いかたまりに変わるまで、視界の先の陸をフルクトゥアトはただ見つめ続けていた。