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第九回

「あんた……誰?」

「そういうあんたは、誰だい?」

「おら、サワネだ」

「サワネ、か。……それ、あんたの仮の名だよ」

「なんだ、それ?」

「人は名をつけるのが好きだから。なんでも仮に名をつけて、それがずっと昔からそうであったように思い込んでしまう。それが仮名さ」

「それがどうしたのさ」

「あんた、……己の真の名を知りたくないかい?」

「……おらはサワネだ。名前なんてひとつあれば十分だ」

 少年は細い目を少し見開いた。

「真名だぞ。真の名を知れば、あんたは己の本当の姿がわかるようになる」

「おらはおらだ。サワネだ。真の名なんていらね」

「多くの修験が真の名を求めて、この山を、そしてこの大楓を訪れる。ところがさんざん彷徨ったあげくなにも得られずに山を降りるやつらがほとんどさ。それを俺がわざわざ直々に教えてやると言ってるんだ。なのにあんた、本当にいいっていうのか?」

「いらねって言ったろ……」

「へぇ……、おもしろい。気に入った」

 そう言うと少年は再び目を細めてサワネを見つめる。

「……なぁ、それよりいい加減おらを下に帰してくれ。お願いだ」

 少年は腕を組んだ。

「あんた、この世のすべてのものの真の名を知りたくないか?」

 少年の黒い瞳が、光を吸い込んで行く。あたりは突然暗闇に包まれた。くくく……、と少年は喉のおくを鳴らす。

「この世の真の名をすべて知れば、あらゆるものを意のままにできる……。生き物ならその生死まで意のままだ」

「そんなの、いらね。それより早くおらを帰してくれ」

「本当にいらないのか?」

「いい。もういいから、おらを帰して」

 サワネはだんだん半泣きになってきた。

「あんた、うつけだろう」

「うつけでもなんでもいいから」

「よく考えてもみろ。なんでも意のままになるんだぞ」

「帰してよ……。ひっく……」

「この岩の真の名を知れば、下に降りる階段を穿つこともできる」

「ひっく……。かえして……。お願い……」

「俺の真の名を知れば、この俺だって意のままにできるんだぞ、あんた分かっているのか?」

 サワネは涙を流しながら首を左右に振った。

「わかんない。何もいらない……。いらないから……」

 少年はすらりと腰の刀を抜いた。刀身は青紫の炎が包んでいる。

 ぐっと一歩近づくと、サワネのあごを片手で持ち上げたると炎の揺らめく刀を首筋に近づけた。熱さはない。むしろ、恐ろしいほどの冷たさを感じる。サワネはガタガタ震えながら少年を見上げた。

「逆らうな。俺の言葉を繰り返せ。分かったか」

 サワネは涙を流し、うめくようにうなずくことしか出来ない。

「間違えるなよ」

 震えながらサワネはうなずいた。

「いいか。『マナケンザン、スワハライ、スワウチケ……』」

「ま、まな、けんざん……」

 口が思うように動かない。なみだがポロポロとこぼれた。ふと脳裏におばばの言葉がよみがえる。

『山にいる間は夜旅も避けるんだよ。今夜の満月は特に……』

 余計に嗚咽が大きくなって、言葉につかえた。

「まじめにやれ。人は脆い、本当に少しのことですぐに死んでしまう」

 喉元に刀の刃が当てられた。ちりちりとした刺すような痛み。

「死にたくないだろ。繰り返すんだ。『マナケンザン、スワハライ……』」

「まな……、ひっく……けんざん……すわ……はらい……ひっく」

 涙でにじんだサワネの視界に、緑の光が映った。吹き上げられるようにして小さな珠がゆらゆらと、瞬きながらこちらに漂って来る。

「『……バサラ、ウン』」

「ばさら……、ひっく……うん……」

 突然、頭帯がほどけ、するりと地に落ちた。サワネの黒髪が風に煽られて広がる。

「よし。封が解けたな。そのまま目を閉じてろ。おまえの真の名を……」

 少年の口元には牙がのぞいている。瞳が底知れぬ闇に変わった。

 その瞬間、さっきから漂っていた緑の珠が加速しながら近づいて来た。

「……なんだ、こいつ? 邪魔する気かっ」

 少年が払いのけようとすると、珠は意志でもあるかのようにふわりとその手を避け、サワネの額に当たった。衝撃はない。だが、目の前が一面緑色に染まって何も見えなくなった。額の真ん中がむずむずして、ほどけ落ちたはずの頭帯の感触を急に感じる。すぅっと青い香りが鼻の奥に広がると、緑の光りは少しずつ薄らいで、まぶたの裏に一本の木が映った。

 緑色の新芽、そして小さく可憐な白い花。サワザクラの若木だった。その木のまわりにもそよ風が吹いているようで、柔らかく若木全体が波打つように揺れていた。枝が揺れるたび、花びらが散るように白い光がはらはらとこぼれてくる。

「しまった!」

 少年がサワネの手首をつかんだ。その瞬間、まぶたに映る輝く枝が小さく震える。

 聞き取れないほどのかすかな声。

 突然、サワネは白い光に包まれた。

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