第八回
「あんた……誰?」
「誰でもいいだろ。それよりせっかくだから、この大楓を見ろよ。滅多に見れないぞ、こんなきれいなもの」
そういうと少年は岩を蹴り、ひとっ飛びでサワネの横に降り立った。腰にヤツデの葉を差すと、両手を組み滝つぼのなかの楓を眺めた。
「いつまで見てても飽きないだろ? いろんな色の光の珠がいくつも落ちてきて……ん?」
少年は急に鼻を鳴らし始めた。サワネの両手首を掴み、顔を近づけるとサワネのからだをクンクン嗅ぎはじめる。サワネは全身がかぁっと熱くなってきた。
「な、なにするさっ!」
「お前、人の子か。どおりで少しにおうわけだ。人間くさい」
「は、離せっ!」
「ふふふっ」
少年は顔を離したが、逆に手首がぐっと引っ張られた。ふわりと浮き上がる感覚。足の裏に土の感触が無くなった。
「はなせっ!」
「それが望みなら手を放してもいいが、するとお前は死ぬぞ、多分」
サワネは足元を見た。文字通り下の方は何もなくなって足が宙にぶらりと浮いている。驚いて足をばたつかせた。
「暴れるな、落ちるぞ」
その一言でサワネは動くのを止めた。恐る恐る目をやると、はるか下には滝つぼと光の珠をこぼす大楓、そして沢の流れがあった。いくつもの峰が小さく見える。風が音を立てて吹き抜けて行くと、からだが揺れ、鷹にさらわれたノネズミのような気がしてきた。サワネは震えながら目をつぶる。
「怖いのか? 目をつぶるなんて。せっかく宙を舞っているのに、楽しまないとはもったいないぞ」
そう言われ、サワネは無理に片目を開いてみた。暗闇の中に白い雲がたなびいて、煌々と月が照っている。
涼しい風が顔をなでた。両腕をしっかりと握る手の温もり。サワネは深呼吸をしてから両方の目を見開いてみた。前方には満月に照らされた山脈の残雪が暗闇にぼんやりと浮かび上がっている。山のふもとにかけては黒々とした森が広がり、そのあちらこちらに明かりが見えた。そうした明かりのあるところはどこも巨木が頭ひとつ分、周りの木々を追い越して飛び出ていた。風に揺れるたび、巨木の葉からは光の珠がこぼれ落ちる。その光がまるでタンポポの綿毛のように風に吹かれて浮かび上がり、空へとただよって行く。サワネのまわりにも、そのようにして舞い上がるいくつもの光があった。
「あの木はみんな滝つぼの大楓とおなじさ。いろんなものが木から吸い上げられている。葉からそれがこぼれおちて、風とともにまきあげられて、どこかへと消えて行く……」
顔を上げると少年と目が合った。
「人の子が、大楓を見つけるとはな」
「おら、道に迷っただけだ」
「そんなはずないだろう?」
「ほんとうに迷っただけだ」
しばらく少年は黙ってサワネを見ている。
「わざわざ探しに来たんじゃないのか?」
「あたりまえだ」
「……おもしろいな、お前」
少年は少しずつ高度を下げた。柱のように垂直に切り立った岩の頂上にサワネは降ろされた。立とうとしても足はふるえて力が入らず、へなへなと座り込んでしまった。
森からはいくつもの光の珠がゆらゆらと上がって、二人が立つ石柱をかすめていった。
少年はゆっくりとサワネの脇に降り立つ。サワネはまだ立ち上がることもできず、少年を見上げた。