第十四回
サワネは首をひねると、天狗に声をかけた。
「なぁ……おまえさ……名は……」
「どうした? 気分でも悪くなったか?」
「いや。……なんでもねぇ」
しばらく無言で風を切って進むと、今度は天狗が口を開いた。
「あんた、今、俺の名を聞こうとしてなかったか?」
「なんぞ。知りたくもない」
吐き捨てるようにサワネが言っても、天狗は「そうか」と呟いただけだった。
しばらくお互い無言で夜の空を漂う。そのうちサワネはきまりが悪くなってきた。
「……なぁ、さっきはあんな言い方して悪かった。おまえの名が知りたい。教えてくれ」
天狗が笑ったように感じられる。
「俺もあんたごときにずっと『おまえ』呼ばわれされていると、気持ちがいいものではない」
上からサワネをのぞき込むと、天狗は耳元で呟いた。
「俺は『カヌヤ』だ」
「カヌヤ……」
「良い名だろ? オオカエデが下さった」
「……それで、オオカエデさまはどうしている?」
「あんたも見ただろう?」
「違う、もう一つのお姿の方だ」
カヌヤは、ぽつりとつぶやいた。
「分からない」
夜風が二人を追い越していく。
「このところまったくお声がけがない。まあ、俺は暇になるから、その方がありがたいけどな。お陰でへんな子守が回ってきてしまった」
「おらのことガキみたいにいうな!」
「ほんとのとこ、ガキだろ」
カヌヤはそう言って笑うと再び風を切って進み始めた。見えない風の壁が次々とぶつかってくるようで、息も止まりそうだ。
ふいにカヌヤはゆっくりと漂い始めた。呼吸が楽になる。気づくと光の粒を宙に放つ大楓と滝が眼下に見えていた。あくまで大楓の木は立派で、揺れるたびに放つ光りは力強く、神聖な印象を与えている。一見しただけでは、オオサクラが言うように、力が弱まっているとは全く感じられなかった。むしろ、今まで出会ったことない存在感、その秘められた力に圧倒される。
――でも、この姿は片方だけなんだ。
青々と葉を茂らせていた大樹が突然に傾ぎ、倒木として朽ちていくのをサワネは森で何度か見てきた。そのような木は例外なく根が腐っていた。
木は、天と地の、両方へ伸び広がるもの。どちらかが駄目になれば、もう一方も倒れる 。
オオカエデがお隠れになっている、ということは、滝つぼにそそり立つ大楓の木にも、遠からずなんらかの影響が現れる。輝く大楓を眺めていると、サワネは胸の奥の方でかすかな痛みを感じた。
カヌヤは少しずつ高度を下げた。大楓がだんだん近づいてくる。やがて滝つぼのほとりに降り立った。サワネの足にも草の感触が戻ってくる。
ところが、再び肝心の足に力が入らず、サワネは今度もへなへなと座り込んでしまった。