第十章)そして北へ 聖母と教皇
▪️教会の闇①
コール聖教国の首都であり、クルス聖教の中心地でもある聖都トゥギル。
その中央に荘厳にそびえるのが、ここクリスタリア大聖堂である。
街の小さな教会がそのまま入りそうな程の祈祷所がいくつも用意され、毎日のようにどこかで祭祀が行われる。
今日は、その中で最も大きな中央礼拝堂で定例の礼拝が執り行われている。
十日に一度、《聖母》が祈りを捧げる大礼拝だ。
数千にも及ぶ蝋燭の火が揺らめき、光水晶からの明かりが燦々と降り注ぎ、磨きあげられた石柱と金箔が施された装飾が煌めく。
香油の甘い香りが仄かに漂い、神の慈愛を謳う賛美歌が響き渡り、数百もの僧侶が博愛と平和の祈りを捧げる。
朗々と謳いあげられる賛美歌が一際、大きくなり、そして静まる。
幕を切って落としたかのように突如訪れる静寂。
僧侶たちが、そして集まった信徒たちは、期待し、そして確信している。
やっと《彼女》が現れるのだと。
そして、その願いは正しく叶えられる。
十名もの従者を引き連れた黒衣の女性。
《聖母》の降臨である。
「主の下、慈愛なる魂に導かれし、愛の子らよ。我が友にして、我が兄弟にして、そして我が身である主の子らよ」
黒衣の《聖母》が、集まった信徒に呼びかける。
けして大声を張り上げているわけではない。
しかし、その透き通るような声音は、礼拝堂の広間中に響き渡り、身に、心に、魂に染み渡る。
他の司祭と同じように、教えにまつわる寓話や経典の戒律を朗読する。
だが、声の抑揚のせいなのか、それとも神秘的な何かが働きかけているのか、婉曲な表現、難解な戒律、神秘すぎて現実味のない寓話。
それらが、さも目の前で展開されるように、閉じた目を見開かされるように説かれるのだ。
集まった信徒たちは、涙を浮かべて聴き入る。
あぁ、これこそが我等の教え、我等の進むべき道なのだと。
隣人を愛し、施し、与え、あらゆる負なるものを浄化し、より高位の魂へと昇華させるのだ。
《聖母》による朗読が終わる頃には、全ての信徒たちはおろか、礼拝の進行を行うはずの司祭たちまでもが、涙をうかべ、一心に祈りを捧げる。
そして《聖母》もまた、彼らに対し祈りを与え、礼拝堂を後にした。
大礼拝が終わり、その他の祭祀も無事に終了し、大聖堂もようやく本来の静けさを取り戻す。
煌びやかで、清らかで、まさに神がこの世に降り立ったかのような荘厳さを持つ、巨大な聖地。
その一角、中央塔へと続く回廊の脇に、ひっそりと造られた質素な扉。
明らかに事務用と思われる飾り気もない扉の奥にある階段を地下へ下ると、もちろん窓のひとつすらない小さな石室にたどり着く。
そこが、現教皇フォルクスの自室だ。
巡礼の信者はおろか、この大聖堂に勤める僧侶たちでさえ、誰しもがクルス聖教の長たる教皇は、この最上階に居を構えていると想像する。
だが、当たり前の話だが、この要塞と言っても過言ではないほどの威容をもつ大聖堂だ。
その最上階ともなれば、日常の移動ですら困難となる。
正確には、最上階にも教皇の間は存在し、予定された謁見などはこちらで行うのだが、歴代教皇のみが立ち入ることの出来る、豪奢な専用階段の脇にもこの部屋へと通じる通路が隠されており、普段はこちらに待機しているのだ。
「あら、猊下。お悩み事ですの?」
その、本来ならば教皇以外には、存在することすら知られていない私室に、もう一人、女の声がする。
「いや、少々考え事をしていましてな。なに、貴女の耳を煩わせるようなことではありません」
小さな、しかし決して安物ではない重厚な造りをした古めかしい椅子に腰掛けているのは、この部屋の主、フォルクスだ。
しかし、その様子は、とてもその所有者に見られるそれではない。
主のために部屋の奥へ据えられた椅子は、むしろ、主以外の誰かに遠慮して、隅へと追いやられているようにさえ見える。
そんなフォルクスに、先程の声の主が妖しく、そして淑やかにしなだれかかる。
世界中の人類の信仰の根幹である、クルス教の頂点たる教皇をして遠慮をさせる誰か、とは、この女以外には有り得まい。
《聖母》、キリエ=エレイソン。
歳の頃は、三十を過ぎた頃か。
昼には黒衣に身を包み、人々に清貧と奉仕を説いていた女だ。
だが、目の前にいるのは、それと同一の人であろうか。
神々しいまでの裸体を隠すように白の薄絹を肩から羽織るも、燭台からの逆光が、むしろ陰影にてその姿を暴く。
まるで光の如き白き肌。
まるで闇の如き黒き髪。
まるで神の彫像の如き美貌。
そして、まるで欲望の権化の如き肢体。
この世のものとは思えぬほどの聖と邪の合一。
無垢と淫靡の融合。
魅惑的などという言葉は最早当てはまらず、その姿を見た瞬間に身も心も抉り出されるかのような、そんな感覚を覚える。
フォルクスは、無意識に生唾を飲み込む。
既に齢も六十を超え、男としての機能も陰りを感じている。
何より、歴代の教皇としては、若くしてその地位に就き、誰よりも敬虔であったのだ。
だからこそなのか、目の前の女から目が離せない。
その瞳に魅入られるだけで、鼓動が高鳴る。
その指先が触れるだけで、呼吸が浅くなる。
その吐息を感じるだけで、己の手が女へと向かうことを止められなくなる。
「さあ、何でも話なさい。猊下、貴方の全てを晒し出しなさい」
「う、あ……。はい·····、《聖母》よ」
そして、その声を聞くだけで、最早抗う気力など失われるのだった。




