第九章)最後の魔王 淫魔
▪️魔王軍の襲来⑱
阿修羅の号令により、再び鬼の軍勢が動き出す。
「守護系魔法・南風の息吹」
リリィロッシュが高らかに宣言するのは、風の加護。
普段、無詠唱で行使する速力増加の魔法を正式に唱えたものだ。
「ガァァァっ!」
「まったくもって遅いですね。走れ、冷厳凍土の王者! 氷雪系魔法・魔狼の疾走!」
唸る大鬼の斧を大きくかわし、狼を模した氷の魔弾を叩き込む。
三体の大鬼が、氷狼に喉を食らいつかれ、瞬く間に氷の塊となって砕け散る。
「ぢぃぃっ、小賢しいわ!」
「甘いです。吹き上がれ大地の脈動! 炎熱系魔法・紅き御柱!」
氷狼の牙を逃れた別の大鬼が、太い棍棒を投擲しようと構えているところへ、溶岩の柱を生やし、周囲ごと燃やし尽くす。
「喰らえぃ。火炎系魔法・豪火球」
「流転せよ! 烈風系魔法・嵐旋風壁!!」
人喰い鬼が放つ火球をリリィロッシュの周囲に展開した竜巻が取込み、そのまま人喰い鬼へと投げ返す。
先程まで苦戦していた相手を、こうも一方的にあしらうことが出来るのには、無論理由がある。
単純に魔法のレベルを上げたのだ。
一対数百という戦力差を考慮し、長期戦を見越して第二領域の魔法をメインに使っていた先程までとは違い、今は第三領域はおろか、第四領域級の魔法をばらまくように使っている。
出力で押し勝つ。
それがリリィロッシュの選択だった。
「殺ったぁっ!」
一際小柄な人喰い鬼が、リリィロッシュの頭上で叫ぶ。
先程放った竜巻の陰に隠れ、他の大鬼に放り投げられたのだ。
頭上からの奇襲。
その手には大刀が握られ、今にも振り下ろさんと構えている。
「駆けろ! “黒桜昇狼”!」
リリィロッシュがただの魔法使いだったならこれで終わりだったろう。
だが、彼女の本分は技巧派の大剣使いなのだ。
魔杖・黒桜昇狼を振り抜く。
普段は杖として使っているが、その実は、風の加護を受けた黒桜から削りだした木刀である。
刃などない、ただの木であるはずのそれは、魔力を通すことで発生する真空の刃とリリィロッシュの神速の太刀筋が合わさることで、どれほどの名刀にも勝る太刀と化すのだ。
リリィロッシュの駆けろの声に反応し、柄尻の狼頭が目を覚ます。
瞳の宝玉が怪しい光を放ったかと思うと、刀身を中心に凄まじい風が宿る。
リリィロッシュは、吹き荒れる暴風をそのままに、頭上の人喰い鬼へとそれを叩き込み、粉微塵へと変えた。
「予想以上の使い手だな」
それまで様子を伺っていた阿修羅が言葉を発する。
「だが、残念だ」
「きゃっ」
四つある腕の一つを軽く振るっただけだ。
風圧に軽く魔力を乗せただけ。
技でも、まして魔法でもない。
それでもその一撃でリリィロッシュは、吹き飛ばされた。
「凄まじいほどの技のキレ。だが、高威力の魔法の連発は不味かったな。結局我らを倒しきれずに、この程度の攻撃をさばくだけの魔力も残っていない。人間としては驚嘆すべきものだが、これで終わりだな」
阿修羅が近づく。
賛辞を送るとともに、最早これまでと幕引きにかかる。
だが、
「あら? 私が人間だなんていつ言いました?」
リリィロッシュの姿が揺らめく。
耳はツンと尖り、その背からはコウモリのような羽根が生え、腰からは触手のような尾が現れる。
そして、まるで湯気か霞のように周囲が揺らめいたかと思うと、纏っていた衣服までもが変質し始める。
内に纏う軽鎧を隠すように羽織っていた漆黒のマントが、かつての親友から譲り受けた軽鎧が、厚皮を鞣した漆黒のブーツが溶ける。
正確には、その姿を保てなくなり、まさに変質する。
揺らめき、肌をつたい、そして軽やかに流れ落ちる。
首筋から胸元を覆うようにしたハイネックドレス。
腰周りや大胆に開けたスリットは、ほとんど素肌と変わらぬほどに薄い闇の絹に覆われている。
一瞬の後、そこに現れたのは、扇情的な吐息を吐き、穢れを知らぬ幼女の瞳で淫らに喘ぐ娼婦の視線を流す、妖女。
魔族だろうが人間であろうが、男ならば百人いて百人が想像するだろうほどに“それ”らしい、淫魔の姿があった。
「ほう、淫魔の手合いだったか。まさか人間に化けて奴らに組みしているとはな。穢れ魔族の男好きも極まったものだが、……だから、どうした? 貴様の魔力切れまで幻術の偽りというわけではあるまい?」
その通りではある。
いかに正体を晒そうと実力の程が底上げさらる訳では無い。
正確には、幻術に使用していた分の魔力に余裕ができるのだが、そんなものは、リリィロッシュにとって呼吸程度の労力にも等しいものだと言えた。
「ええ、確かに。私の力はここが限界。最高位魔族の淫魔としては、落ちこぼれなのよ」
悪びれもせずにそう言う。
通常、強い魔族というのは、魔力溜りから発生した“原種”に限られる。
親を持つ“派生種”の魔族は、中程度の実力、具体的にはAランク中位程度までの力しか持ちえない。
ただ、何にでも例外というものがある。
そのひとつが、淫魔という種族だ。
彼女達は、上位者はSランクにも手が届く最高位種族。
数代前の魔王の時代には、側近として召し抱えられたこともある程なのだ。
だが、今はまだ、リリィロッシュはその域に達する事ができていない。
「今はまだ、ね」
そう言うと、なけなしの魔力を練り上げる。
魔法とは、世界に満ちる魔力を吸って吐き出す行為のことである。
精神エネルギーと生命エネルギーとの差分を外界から取り入れ、術式を固定して放つのだ。
そして、魔法を続けて使用すると、精神エネルギーが擦り切れ、魔法を使うことが出来なくなる。
それを一般に魔力が枯渇すると表現する。
今まさに、リリィロッシュは枯渇寸前ではなく、枯渇する所まで魔力を吐き出した。
「やぁぁぁっ!」
生み出した特大の魔力球。
魔法ですらない純粋な暴力の塊だが、阿修羅は、つまらなそうにそれをたたき落とす。
「足掻くな。晩節の足掻きは生き様を汚す。これで最期、諦めろ」
そう言ってその手に氷の槍を作り出す。
「足掻くな? いえ、足掻かせていただきます。これでも私、淫魔としては、落ちこぼれなのよ」
突き出された氷の槍が、褐色の肌を貫かんと触れたその瞬間、槍が消滅する。
「なっ……!」
後ろへ飛び退くのは仕掛けた阿修羅。
そして、先程まで氷の槍を持っていたその腕は、肘から先が無くなっている。
「ばかな! 何が起こった!?」
慌てふためく阿修羅たが、その様子をリリィロッシュが上方から見下ろす。
「ふふ、何が起きたんでしょう?」
リリィロッシュは、怪しげに微笑みを浮かべ、黒桜昇狼に腰掛けて宙に浮いていたのだ。




