5.親の気持ち、子の気持ち
「久しぶりにおまえの本気の走りを見たよ。」
実が声をかけてきた。確かに今までは、柔軟性を意識したトレーニングや、軽い調整を主に行ってきたので、全力ではなかった。
「これでもまだ勝てないとおっしゃいますか?」
里美は呆然と口を開けている。驚いたにしても、年頃の女性なわけだし、はしたないのでは。
「あぁ。今のままでは半々ってとこだな。」
実から返ってきた言葉は久伸の予想を大きく翻すものだった。驚きを隠せない久伸は言葉が出ない。
「そ、そんなことないですよ!立派な走りだったじゃないですか!」
里美が口を挟む。
「いいや。その証拠におれは二つ、久伸の弱点を発見したよ。」
また根拠もなしにこの人は!
「一つは今すぐにでも克服する気がありゃあ無くなるさ。だがもう一つは、おまえ自身が気づかなければ、治ることはない。」
実の発言には力があった。当然、クラシッククラスでの初めてのレースのため、久伸にも不安はあるが、自信だって負けないくらいあった。だが実の言葉には、例え根拠がなくとも、久伸の自信を一気に否定するに十分な力を持っていた。
「ならその弱点とやらを聞かせてくださいますよね?」
実は何も言わず、ポケットからメモを取り出した。
「これをやっておけ。そしたらダウンをして帰っていいぞ。」
そのメモを受け取るとそこにはトレーニング内容が書かれていた。まず、この1000メートルトラック、3周を5本。計15キロだ。そして山のふもとまで降りて、この大学の門までの坂道ダッシュを5本。どちらも半端じゃない量と言える。
「これを?1日で?」
「そうだ。」
実がニヤリと笑う。笑えるか!冗談じゃない!こんなの…
「できなければ…言わなくてもわかってるな?」
なんて言いぐさだ。そんなにおれは足が遅いか?
「弱点についての説明は?一つはいいにしろ、もう一つの方は話せるはずです。」
いきなり走らせるなり、弱点を発見したと言い、何の説明もなしに、この量のトレーニングをやれという方が無理じゃないか。
「そっちは気づく必要もない。おまえがすでに感じているはずだ。」
え?気づいてるはず?
久伸には全く身に覚えがなかった。
「なぜ隠そうとするんです?」
久伸には聞かずにはいられなかった。実の手の上でコロコロと転がされ、遊ばれているような気がしてならない。
「レースってのは…誰が勝つもんだと思う?」
いきなりの問いかけに久伸は、少し時間を要した。
「…そんなの、速いやつに決まってるじゃないですか。逆に言えば、遅いやつは負ける。」
久伸の意見を耳に入れた実は、まずため息をついた。
「違うな。レースで勝つのは、一番最初にゴールを駆け抜けたやつだ。」
実が二本目のタバコに火を点けながら言う。
「それがヒントだ。後は自分で答えを拾ってこい。」
里美は車を運転しながら、大学での出来事について考えていた。
昨晩、副賞レースは勝てると自信を露わにした実さん。
このままではお前は負けると松山選手に喝を入れた実さん。
瞬きすら惜しい光景だと松山選手の走りを評価した実さん。
松山選手に弱点があると言い出し、それを克服することを義務付けた実さん。
どれが本当の実さんで、一体何のために本心とは違う自分を作り出すのか。
それはきっと松山選手のためなんだろうけど。二つの弱点ってなんだろう。
あっ!
赤信号だと気づき、急ブレーキを踏むが、里美の運転する車は、交差点の真ん中で止まった。
ここに止まられると他の車が通行できない。仕方なく、後方に車が停車していないことを確認し、車をバックさせた。
ふと空を見上げると、薄明るい橙色を帯びた青い空から弱い閃光を放っている星が出ていた。どうやら間もなくこの空も光を失う時間だろう。
久伸はグラウンドに寝そべっていた。実から受け取ったメモのトレーニングは一通り終えた。足が棒になるとはこのことだろう。膝にうまく力を込められない。
弱点については、結局発見できなかった。クラシッククラスのレースを甘く見ているわけではない。そこに所属する人達だって自分と同じように新人クラスで鍛え、数多くの強敵を退け、今があるのだ。たかが毎年一人は出るという新人王の若造に白星を譲るほど、やわな連中じゃない。
全く。教えてくれないなら最初から不安を掻き立てるようなことは言うなよ。
記者である里美には何か親近感の湧くような雰囲気を感じた。ちょちょらで、記者に必要なものを何一つ持っていないような気がした。きっと社内でも上司の目の敵にされてる部下の筆頭をいくだろう。
だが久伸は現に親近感を感じた。記者にとって必要なものは持っていなくても、記者に向いているのかわからなくても、それが大事なことのような気がする。もしかしたら、里美に自分と似た空気を感じたのかもしれない。
…レースとは何ら関係ないけど。
松山久伸の自宅はマンションの二階にある。五階建てのマンションだが、異様に高さを感じるマンションだ。その理由としては、周りの建物より一回り大きいからだろう。時間が時間だけに、ほとんどの部屋の電気がついているのが確認できる。
マンションの前まで来た久伸は、異変に気づいた。自分の部屋の電気がついているのだ。
おかしい。鍵はかけたはず。いや、本物の泥棒や空き巣なら、留守中の昼間を狙うか、違うにしても電気をつけて周りに存在をアピールしてしまうヘマはしないだろう。
急いで階段から二階に上がり、自分の部屋の玄関前で立ち止まる。ドアノブに手をかけ、音が出ないように慎重に回す。やはり鍵が開いている。ゆっくりとドアを開けた。中から小さな話し声がする。
中に上がろうとしたところで、この不法侵入者の正体がわかった。玄関にきれいに揃えて置いてある三つの靴。一つは自分の物だが、あとの二つには見覚えがある。白いアディダスのスニーカーと紫色をした女性物の靴。父さんと母さんだ。
相手がわかった以上、こそこそする必要はない。久伸は乱暴に靴を脱ぎ捨て、部屋に上がった。
物音に気づいたのか、母の佳江が奥の部屋から出てきた。
「お帰りなさい。」
顔にはしわが多く、すっかり痩せこけてしまっていた。最後に会ったのが一年前なのだが、十年くらい年をとったように見える。
「何しにきたんだよ。人の家に勝手に入って。」
久伸はあからさまに不満な態度を発した。
「ごめんなさいね。いきなり来ちゃったりして。」
母は俯いた。
「勝手とはどういうことだ?子供の家に来るのに許可がいるのか?」
いつの間にか父の昌史が母の後ろに現れていた。この、人を見下した態度。何にも変わってない。しいて言うなら、前より弱々しい雰囲気になり、白髪も多少増えた。
「何しにきたっつってんだよ!」
久伸は声を荒げた。
「親に向かってなんだ、その態度は!」
父も負けていない。少しの時間、睨み合いが続いた。
「ちょっと、あなた!そんなことをするために来たんじゃないでしょ!」
佳江が怒りに満ちた昌史を制する。少し落ち着いたのか、父さんが目をそらした。
「久伸、あのね。お父さんとお母さん、久伸に就職先のリストを持ってきたのよ。」
「就職先のリスト?」
就職先だと?おれは賭競争のレーサーだ。そんなものは必要ない。
「そうよ。求人票見たり大変だったんだから。」
母さんがふふふ、と含み笑う。久伸はわけがわからなく、勝手に余計なことをする両親に怒りが溜まってきた。
「今日だって走ってきたんでしょ。いつまでレーサーみたいなことしているつもりなの?そんなことしてないで早くちゃんとしたところに就職しなきゃ。」
そんなことだと?レーサーみたいなことじゃない。レーサーなんだ!
「いろんな資料持ってきたから。後で…。」
母さんが渡そうとした資料の入ったファイルを叩き落とした。もう我慢ならない。
「余計なことすんなよ!別におれは無職なわけじゃない。れっきとした賭競争レーサーなんだ!」
次の瞬間、父さんの鉄拳が飛んできた。気づいた時には、すでに頬にジャストミートしていた。
間髪入れずに吹っ飛んだ久伸を昌史は胸ぐらを掴み、ドアに叩きつける。
久伸は痛さで顔をうずめる。佳江が、あなたやめて、と間に割って入ろうとするが、今度ばかりは昌史もそれを許さない。
「自分一人で生きてきたみたいな面しやがって…。今まで生きてこれたのは誰のおかげだと思ってるんだ!母さんがどれだけ心配したか、お前わかってんのか!」
久伸は昌史の腕を振り払った。
「心配なんかしてくれなくたって大丈夫なんだよ。勝手に動き回って…わかってないのはどっちだよ!」
なにぃ!と昌史が再び久伸に近づこうとしたが、今まで涙目で眺めていた母、佳江が間に入った。
「二人ともやめて!もうわかったから!」
佳江が叫び声に似た怒声で言う。もしかしたら、涙を流しているのかもしれない。久伸のアングルからはよく確認できなかった。
「あなたがそんなにレースをしたいのはなぜなの?将来のことだって不安定で、賭競争のレーサーなんて、レースに勝てなければ収入源はないのよ。」
消え入りそうな声で佳江が言う。
「将来のことなんて考えてない。」
久伸の言葉に母が顔を上げる。え?という素っ頓狂な声と共に。
「勝てなければとか収入源がないとか、そんなことどうでもいい。走るんだ。走ることが好きでそれがおれの全てなんだ。走れなければおれじゃない。勝つことも前提で、負けたらとかは考えてない。勝つんだ!」
久伸は語尾に力を込めた。これだけは絶対に譲れない。
「そんなに甘い世界じゃないのよ。勝てなかったレーサー達はどうなるか、久伸だって知ってるでしょう?」
今度は佳江も力が込もっていた。よほど心配しているんだろう。久伸にもそれは伝わった。だがそれ以上に、久伸にも伝えたいことは山ほどある。
「他のレーサーは他のレーサーだ。おれはおれ。どんなに貧相な暮らしになっても、おれは辞めない。止まれないんだよ。失敗なんか怖くない。次なんかいらない。普通に就職なんて道は元から必要ないんだよ。」
佳江も昌史も黙っている。考え込んでいるようだ。息子の将来というものが掛かっているので、当然と言えば当然だが、久伸にも自分の歩みたい道がある。
「ならこうしよう。」
先に口を開いたのは父、昌史だった。
「いきなり押しかけてレーサーをやめろってのもおまえが納得しないのももっともな話かもしれん。だが親の立場として素直に子供にそんな道を歩かせることを許すわけにはいかん。」
父としては珍しい、話のわかる態度だった。いつもは問答無用で自己主義者の父なのだ。
「今度のレースも近いのだろう。賭競争らしく、賭けをしてみるか?」
「賭け?」
久伸にはよくわからなかったが、父は余裕の表情で、そうだ、と告げた。
「もし、今度のレースでおまえが勝ったなら…おれも男だ、おまえの好きにさせてやる。だがもし、負けたら…その時は賭競争レーサーの道を諦め、こっちが提供する職場に就職してもらう。」
なるほど。おれのレース結果が賭けの対象ってわけか。
もし一着でゴールできなかった時、おれの賭競争レーサーとしの人生は幕を下ろすのだ。
「どうだ?男らしく引き受けてみるか?」
「あなた、そんな無責任な!」
母、佳江がまた割って入る。
「黙ってろ。これは男と男の勝負だ。」
父も引かない。
「さっきも言っただろ。負けることなんか頭にない。望むところだよ。受けて立つ!」
そう言うと昌史はニヤリと微笑んだ。自信でもあるのか?いや、なぜだかはわからないが、父の微笑みに少し優しい想いさえ感じた。それは粒子の一粒のような、細かく、小さいものだ。
「それでこそおれの息子だ。レース楽しみにしているぞ。」
父はその言葉を最後に、玄関へと向かった。母も慌てて、さっき久伸が叩き落とした資料をかき集め、後を追う。
途中で立ち止まり、こちらを振り向いた。
「久伸…ケガしないように気をつけてね。」
母もその言葉を残して、足早に外に出て行った。
久伸には強い気持ちが残された。
負けられない…!