4.朝は突然に
午前八時を過ぎたところで、松山久伸はようやくトレーニング場所として使っている、大学の前の坂道に着いた。今日は実のせいで少々早起きをする羽目になった。朝、目が覚めると、携帯の着信に気づいた。というより、それのせいで目が覚めたのだ。電話に出ると聞き慣れたかすれ声が耳に届く。
「よう。起きたか?」
相手は久伸のサポーター兼トレーナーの高木実だ。先輩と言えど、気持ちよく寝ているところを起こされれば頭に血が昇る。
「起きたか?じゃありませんよ。今何時だと思ってるんです?」
「すまんな。時計を見る、は習慣じゃないんでね。」
「いつの時代の人間ですか。まだ外は薄暗いですよ。」
「とりあえず大学に来てくれ。今日これからみっちり指導してやる。」
そういえば、実は今まで久伸のトレーニングや調整にあまり口出ししてこなかった。それはクラシッククラス所属が決まってからずっとだ。新人クラスでは一人で何から何までやってきたので問題ないと思っていたが、それにしても…
「なんで今頃なんですか?もう次のレースまで一週間切ってるんですよ?」
「昨日色々あってな。資料を見てたりしたんだが、気づいたことがあるんで、つべこべ言わず大学に来い。」
なんて身勝手な…。どこかの自己中心女とそっくりだ。どうしておれのあまりはこういう人ばかりなのか。
昨日と言えば、やたら弱々しい感じの女の人を実の家まで送ってあげたのだが、何か関連性があるのだろうか。
疑問だらけのこの状態に久伸はもうどうでもよくなっていた。
「わかりましたよ。二度寝してから行くので小一時間ばかり待ってて下さい。」
「いい度胸だな。そんなことをすればもう二度と指導はないと思ってくれ。」
あぁ…もういやだ。
「わかりましたよ!今から支度して向かいます!」
それだけ言い切って実の返答を待たずに電話を切った。本当はトレーニングなど、一人で十分なのだが、実の言っていた気になることと言うのが久伸にも気になっていたのだ。
それからふてくされながらも準備を整え、ここまで歩いてきた久伸は、頭に血を昇らせていた。睡魔と闘いながらもやっとの思いで歩き、坂を登り、大学に着いてみれば、実はおろか、人影がまるでない。
…いつか殺す。
久伸はグラウンドに落ちていた石を蹴り飛ばした。
「どこへ行くんだ?」
後ろから声をかけられ、新藤里美はびくっとした。自分のデスクを離れ、廊下を歩いている最中だった。声の主はわかっている。非常に低く響く声、編集部の部長、浅井盛政だ。
どうしよう。返す言葉が見つからない。里美はこれから昨日訪れた高木実と待ち合わせをした場所で落ち合い、松山選手の走りを見に行く予定だった。ただそれには条件があるのだ。
松山選手の走りを見て、そのことを一切記事にしないというものだった。当然記事にしないとなれば仕事ではない。単なるプライベートの予定となる。こんなことを部長に話せるわけがない。
「どうしたんだ?どこに行くのかと聞いてるんだぞ。」
「あの、部長…あの、それなんですが…その…」
言い逃れができない。
「昨日頼んでおいた仕事の報告は上がってこない。今朝は遅刻してくる。かと思えば無言で外出しようとする。一体おまえは何をやってるんだ?」
浅井部長の声のトーンが変わった。こうなると少し事態は深刻だ。本気で怒り始めたのかもしれない。ここは何とか見逃してもらわなければ…。
「昨日はその、あまりお話しがお聞きできなかったものですから。」
「だったらなぜそのように報告をしない?」
まずいぞ。これまでのパターンだと編集室やらに連れて行かれて、約二時間あまりの説教って線が堅い。そこまでの時間的な余裕はない。
「部長!そういえば、先程社長が大事なお話しがあると探していました!」
とっさに出た嘘がこれだ。言った後でまた後悔した。これこそ後々とんでもないことになるだろう。その事態に比べれば説教二時間なんて、単なるちょっとした火傷と山火事ほどの差があることは否めない。
部長の目が里美の目を凝視する。まさにヘビに睨まれたカエルだ。里美は怖くて目を背けることすら出来ないで硬直している。バレたのかな?だったらそうだと早く言ってほしい。この重たすぎる空気に里美は耐えられる自信がなかった。
「なぜそれを早く言わない?おまえはいつも何かが遅れてるんだ。もう少ししっかりしたらどうだ?その遅れで迷惑がかかるのはお前自身だけではないんだぞ。」
それだけ里美に怒鳴り散らすと、ここを絶対に動くなよ、と言い残し浅井部長は去っていった。
全く大きなお世話だ。誰が言うことなんか聞いてやるもんか。でもさっき言ってしまった嘘の言い訳は今から考えておいた方がよさそうだ。里美は抜き足差し足に近い歩調で会社を出ていった…。
「何をしてるんだい?」
目を開けるとそこには、寝癖だらけでタバコをふかしている実が立っていた。いつの間にかグラウンドの隅にあるベンチで眠ってしまっていたらしい。
「人を呼び出しておいて遅刻とは。年の差関係なしに頭が下がりますよ。」
「皮肉を言ってる暇があったら支度を進めてくれないか?」
謝罪はなしか。全く本当に身勝手だ。それより気になるのは先輩の後ろにいる、昨晩送ってあげた女性だ。なぜここにいるのか全く見当もつかない。目が合うと、深々と頭を下げてきた。
「昨日はお世話になりました。ありがとうございました。」
いえいえ、と手を振って答える。それより聞きたいのは、なんでここにいるのかなのだ。
「なんだ。知り合いだったのかい。」
実が口を挟む。全く、遅刻はするくせに話の腰を折りやがって。
「実さんの知り合いの方なんですよね?お友達ですか?」
女性がそう言うと急に実が笑い出した。
何が可笑しいのかわからないといった表情で女性が呆然とこちらを見た。だがそれは久伸にとっても疑問だった。
「知り合いっちゃあ知り合いみたいだけど正体までは知らなかったようだね。」
何のことだ?久伸はわけがわからず苛立ち始める。
「正体…ですか?」
女性がそう言うと実が、うんうんと頷く。
「目の前にいるこの無愛想な感じのこの男こそ、君が探している新人レーサーの松山久伸だよ。」
勝手に人の自己紹介をするな!だいたいなぜこの人に正体を明かす必要があるんだ。
その女性は、驚きを隠せず、開いた口を手で覆ってしまっている。
疑問はまだ残っているが、雰囲気的にまだ質問はよしたほうがよさそうだ。
「それじゃあ私はすでに昨日、松山選手に会っていたのですね?感激です!あっ私、新藤里美と言います。あの、新聞記者をしていまして、あの、昨日は本当にどうもありがとうございました!」
それはさっき聞いたんだけど…。この人は結構慌て者なんだな。だがこれで謎は少し解けた。
この女性の名前と正体。だがここに来た動機と先輩と一緒にいる訳が、未だわからない。
「まあこの時期、ルーキーってのはある程度取材なんかをお願いされるもんさ。例年の新人の成績からか、力は入れられてないがね。」
「取材は全部断っているはずですが。」
久伸は、様々な新聞社からの取材を片っ端から断っていた。久伸自身、ルーキーが大きく取り上げられているのを良しと思っていない。何より取材やインタビューといった類が苦手なのだ。
久伸の一言で、里美は久伸が気を悪くしたと思い、すいませんと頭を下げた。
「おれが連れて来たんだ。インタビューもなければ記事も書かないという条件付きでね。」
それなら問題はない。だが疑問が新たに浮かぶ。
「そんな条件を聞き入れて、新藤さんはなぜここに?記事が書けないとなれば仕事にはならないでしょ?」
里美が挙動不審気味にオドオドし、困っていた。なので久伸の質問には実が代わりに答えた。
「なぁに。ただ単にお前の走りが見たいと言うんで連れてきたんだよ。」
「そうでしたか。それは残念ですね、新藤さん。今日僕は誰かさんのせいで滅多にしない早起きをして体がガタガタでいい走りができるかわかりませんよ。」
「ん?それはおれのことか?」
実が自分を指差しながら問う。当然だ。答える必要さえ、ないと思い、無視してやった。
「まあいいか。雑談はこれくらいにしてトレーニングを始めるぞ。」
実がそう言うのを聞いて久伸はその続きを制した。
「その前に今日電話で話した気になることというのを聞かせてくれればトレーニングもスムーズに効率よく進むと思いますが。」
「図々しい要求だな。裏を返せば、話さないとトレーニングができないと言ってるように聞こえるぞ。」
「そう言ったつもりですが。」
実が、チッと舌打ちした。里美は久伸と実の顔を交互に見ている。
「いいだろう。一度しか言わないからよく聞いてくれ。」
そこで実は一度ゴホンと咳払いをして区切る。
久伸は集中力をフルに使い、先を待つ。
「まずおまえが出走する、春花クラシック短距離副賞開催地だが、知っての通り京都で行われる。」
え?いや…知りませんでしたけど。
「新人クラスの時はいつもレースは東京でしたけど。」
久伸の言葉に実が怪訝の目を浴びせる。しかも里美さんまで驚きの表情だ。
「おいおい頼むぜ?新人クラスとクラシッククラスでは何から何まで違うと話しておいたろう。」
それは聞いたが、開催地のことまで含まれた話だとは思わなかった。
…あいつには後で知らせるか。
「そこでなんだが、京都の競技場には当日入りする予定でいる。」
レースに出走予定のレーサーは、普通一週間内に現地入りしているか、そうでないにしろレース前日には全員が宿舎やホテルに到着しているというのが常識になっている。
「その理由はなぜですか?」
口を開いたのは意外にも里美だった。
「理由は多々あるが、一番でかい理由はやはり、トレーニングだ。トレーニングの時間を取ることを最優先に考えた。」
おかしな話だった。これからトレーニングをしなければならない理由がトレーニングの時間を取ることなんて。意味がわからない。
「話の趣旨がずれてるんじゃないんですか?その話は先輩が気になったこととは繋がらないはずです。」
たまらず久伸が口を開くと、実はまあ待てという風に手のひらをこちらに翳した。
「ストレートに言えばお前さんはまだこのクラシッククラスのレースを知らない。今のまま挑めば例年のルーキー通りになるぞ。」
「どういう意味ですか?」
「このままでは勝てないという意味だ。」
久伸の問いに、あたかも先生に問題を出題された生徒のように、実は淡々と答えた。
「久伸が考えているほどクラシッククラスのレースは甘いもんじゃないんだ。今回出場するのは副賞レースだが、ここにさえ、強豪がうごめいているというのに、クラシックレースとなれば比較するなり月とスッポンだ。」
大学の敷地内にも関わらず、実はまたしてもタバコに火を点けた。
「当然勝てるという保証がないからと言って、勝てないという保証もない。お前さんには足りないものがいくつかある。そいつをこれから補ってやろうというわけだ。」
そう言うと実は、タバコを携帯型灰皿に押し込んだ。
「足りないものって?」
「まあ結論を急ぐな。順を追っていけば自然とその身で感じるさ。」
結局、この雑談でわかったことは何もない。聞くだけ無駄だったのか。
里美は不思議でしょうがなかった。昨日はあんなに自信満々だった実が、今日は手のひらを返したように厳しい。聞きたいことは山ほどあったが、今聞こうとしても、きっと説明はしてもらえないだろう。
それにしても、このひ弱で無愛想な青年が本当にもの凄い走りをするのだろうか。もしかすると例年通りのルーキーなのかもしれない。
里美は考えれば考えるほど不安になった。
「まずは短距離副賞レース同様の距離、1000メートルを一本いくぞ。準備はいいな?」
久伸がスタート位置につき、一息吐く。
「いいですよ。」
どうやらこの大学にあるこの陸上用のトラックは一周1000メートルあるようだ。殺風景な景色だが、山々に囲まれ、平地より少し高く、空に近いため、この大学は空気も薄いはず。走りやすいというわけにもいかなそうだ。
「5…4…3…2…1…スタート!」
実のスタートの声と同時に久伸が走り出した。ペースは意外と平凡で力を抑えているようにも見える。
「がっかりしたかい?」
「え?いや…そういうわけでは…。」
実のいきなりの質問に、図星だった里美は、どう答えていいかわからなかった。
「大丈夫だ。目を離さず見てるといい。」
言われるまま、里美は視線を久伸に移す。ちょうど半分を過ぎたあたりだろうか。ペースは変わりなく平凡だ。これでは例年通りではなく、例年以下だろう。
「ここからだ。瞬きすらもったいない光景だぞ。」
実が言う。だが、里美は信頼してなかった。すでにタイム的にも遅れをとっているはずだ。最後の追い上げも、良くて平均かな。
久伸がカーブを曲がり直線に入ったところで、久伸に異常が出た。スイッチでも入ったかのように鬼の形相になった。さっきまで、こっちで話していた人とは別人のような顔つきだ。それだけではなかった。
夜になると、走っている人間の足の運びが分身しているように見えることがある。それはやはり夜のため、暗くて視力が低下するためだろうと思われるが、これはどう説明する?
久伸がまるで地面と水平に飛んでいるかのようだ。風を切っている。いや、風すら味方につけ、風になっている。
あっという間にゴール地点に着いていた。平均?平凡?とんでもない。彼は間違いなく、春花クラシック優勝候補の一角を担う大物だ!