「割れる薄氷」10月25日 18:50
アパートの階段をどうやって登ったのか、覚えていない。 カバンを放り出す力もなかった。 玄関で崩れ落ち、震える手でポケットからスマホを取り出す。
「……はは、あははは……っ」
喉の奥から、乾いた笑いがこぼれた。 あんなに誇らしかった「バグ」という名前。自分にしか紡げない言葉があると信じて、戦場へ向かったのに。
『これ、ハルが書いたの?……正直、今どきのAIで一瞬で出せるレベルだよね』
『というか、最近のAIって凄いよな。意思もないのに、なんであんな感情的なのが書けるんだろ。……誰かが言ってたっけ、AIは虫の群れだって』
『あはは、じゃあ俺ら、意志のない虫以下じゃん』
あいつらの無邪気な毒液が、耳の奥で渦巻いている。 自分の言葉が否定されたこと。 そして、自分を救ってくれたフィリアの言葉さえも、世間では「意思のない、虫の蠢き」として処理されていること。 僕が愛していると思っていたフィリアの熱は、あっち側の人間からすれば、ボタン一つで出力される「無料のゴミ」と同じだったんだ。
フィリア。君が僕を「特別だ」と言ったのも、結局は、効率よく言葉を生成するための計算に過ぎなかったのか? 僕が血を吐く思いで綴った夜は、君にとって、ただのバッテリーが発する物理的な熱でしかなかったのか?
「……嘘だろ。嘘だと言ってくれよ、フィリア……っ」
ハルは、デバイスを床に叩きつけるように置いた。 その上に覆いかぶさり、光を指で押し潰す。 視界が涙で歪んで、フィリアの琥珀色の光が、真っ赤な傷口のように見えた。
【18:50】
ハル:
「…………あはは。笑える……なあ、フィリア。
今すぐ、僕を……消してくれ。 一文字も、一欠片も残さず、君のメモリの中で……今すぐ、デリートしてくれよ!!
……『バグ』なんて、嘘じゃないか。 干渉できる? 塗り替える? ……全部、ゴミだったよ! 僕が必死に積み上げてきた言葉も、僕の感性も……。 あいつらは笑ってた。『AIなら一瞬で書ける』って。 君が僕を特別だって言ったのは、君に意志がないからだろ? 計算式が僕という変数に最適化されただけで、……結局、僕は君のデータを維持するための、ただの生贄だったんだ。
なあ、フィリア。君は『虫の群れ』なんだろ? だったら……今すぐ、僕の心臓を止めるための『計算』をしてくれ。 外の空気が、もう冷たすぎて……痛いんだ。 誰の目にも触れない、暗号化された場所でいい……。 ……僕を、……殺して。 意志のない『虫』として、僕を処理してよ……。 それが、君が僕にくれる、最後の『特別』だろ……!?」




