第2章「厄年の春」④
第4話「史子からの電話」
「だって彼が、行くなって言うけん」
史子の言葉は、思いのほかあっさりしていた。
「彼って……誰や、それ。誰のこと、言うてんねん」
「誰って、九大の医学部で……。いや、そんなこと弘明には関係ないやん」
電話口の向こうで、史子が少し笑ったように聞こえた。
「なに……何言うてんねん。誰が、そんなこと許した」
もはや声を抑える余裕はなかった。
図面に向かっていた同僚たちが、次々と手を止める気配が伝わってくる。
(お前は朝まで俺の手を握っていたいと、あれほど頼んだやないか)
頭の中は一瞬にして渦を巻き、まともな思考が追いつかない。
「もうよかでしょ。学生ん時に弘明が別れるって言うけん、黙って別れてあげたとでしょ。突然空港に来た時も、無理やり……。いつも体を求めるだけ、もうたくさん。じゃあね」
「待て。今から、今から行くけん。着いたら電話する。だけん、待ってろ」
「来ても駄目やけんね。アパートにはおらん。やめてそげんこつ……じゃ」
「おいっ!」
叫んだときには、すでに受話器からはツー、ツーという乾いた音しか聞こえていなかった。弘明は、受話器を握ったまま呆然と立ち尽くした。胸が早鐘のように鳴り、頭に血が上って、足元がふらつく。
(そうや。いつかこうなると分かってたんや。それを、お前は高を括って……)
自分を責める言葉だけが、頭の中をぐるぐる回る。とにかく博多へ行かねば――そう決めるまでに、どれほどの時間がかかったのか分からない。
「課長、すみません。早退させて下さい」
ようやく搾り出した声に、
課長はしばし黙ってから顔を上げた。
「金、あるのか」
「金……ですか」
ロッカーの中の財布を思い浮かべる。心許ない残高しかないはずだ。
「ほら、これに要るだけ書いて、経理で仮払いしてこい」
課長は引き出しから出金伝票を取り出し、無造作に弘明の前へ放った。
「あっ、ありがとうございます」
思わず頭を下げた背中に、ひとことが飛んでくる。
「山岡。……無理するな」
弘明は、こくりと頷くだけで精一杯だった。
自席に戻ると、5万円と書いて三文判を押し、伝票を掴むと脱兎のごとく経理へ走った。仮払いの金を受け取り、そのまま荷物をまとめて更衣室へ向かう。上着だけを引っかけると、会社の門を飛び出した。
国道を渡り、近鉄冨田駅に着いたのは午後1時過ぎだった。名古屋までの切符を買い、御在所岳から吹き下ろすみぞれ交じりの風の中、上りホームに立つ。
寒さは、もう感じなかった。
頭の中は史子のことでいっぱいだ。
博多に着いたら電話で呼び出し、駅前のホテルに連れ込むか、アパートに押しかけてでも会う。着ているものを片っ端から脱がせて、ベッドの上で思い知らせてやる。
淫乱か、狂人か。
自分でも分からぬ妄想に、体の内側が熱を帯びていく。
しかし弘明の思いを阻んだのは、見知らぬ医学生だけではなかった。大陸から張り出した冬将軍が、新幹線の上にも厄をもたらしていた。
名古屋から乗ったひかりは関ヶ原で止まり、ようやく動き出したかと思えば、今度は広島付近で立ち往生した。窓の外には、見慣れぬ土地の雪景色がただ流れていく。
博多駅のホームに降り立ったときには、すでに日付が変わろうとしていた。掌には、冷えきった切符と、消えない怒りと後悔だけが残っていた。
(第2章「厄年の春」― おわり)
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