第2章「厄年の春」②
第2話「父の横顔」
昭和52年(1977年)1月17日、月曜日。
前日に厄払いを済ませたばかりの弘明は、冷えきった北風の中を富双造船の正門へ向かっていた。この日は184番船の進水式。弘明は数日前、父母を職場に招待していた。
去年の進水で事故はあったが、徹夜作業の末にどうにか復旧し、責任問題もうやむやになったまま、会社は再び動き出している。銀行の融資もまとまり、造船所には、久しぶりに張り詰めた空気ではなく“期待”の匂いが漂っていた。
(昨日の、あれは……)
岡寺での父の平手の痛みはまだ残っていた。
理不尽なようでいて、どこか切迫したようでもあったあの一撃。今日どんな顔をして会えばいいのか、弘明は答えを持たないまま歩き続けた。
守衛所の前まで来ると、見慣れた背中が二つ並んでいた。父母だった。事前に申請はしてあるはずだが、不慣れな様子で守衛と話をしている。父の背中は思いのほか小さく、母は緊張した面持ちで周囲をきょろきょろ見回している。
「なんや、誰かと思ったら、あんたかいな」
母が気恥ずかしそうに笑い、横で父がゆっくり振り返った。その表情を見た瞬間、弘明は思わず足を止めた。昨日あれほど鋭く叩きつけてきた男が、今はどこか照れくさそうに、しかし確かに“誇らしげに”笑っていた。
(親父……こんな顔、するんやな)
ヘルメットを少し上げ、顎ひもを緩めて挨拶すると、二人の顔はふっと和らいだ。
社屋へ案内しながら弘明は、鋼材から船を造る流れ、設計の役割を説明した。普段は口うるさい母が驚きと嬉しさを隠さない。父は、寡黙に相づちを打つだけ。ただその目には、明らかに誇らしさが宿っていた。
事務所棟の間から船台が見えたとき、
父は小さく息を呑んだ。
「これが……お前の、仕事か」
短い言葉だったが、
その声音には、長年家族を支えてきた男の実感があった。
午前9時半。進水式は滞りなく始まり、やがて巨大な船体がゆっくりと動き出す。浸水架台のローラーが低く唸り、184番船は音もなく海へ滑り落ちていく。乾いた轟音とともに白い飛沫が上がり、冬晴れの空に反射した。
父母の横顔を見ながら、弘明は胸の奥に何か温かいものが広がるのを感じた。父は無言のまま船を追い、母は拝むように手を合わせていた。昨日の岡寺での父の強い平手も、あの鳥居の影も、いまは遠い存在に感じられた。
式が終わると、父は背を伸ばし短く言う。
「ほな、帰るわ……」
ただそれだけ。
しかし、そのはにかんだ物言いは、どこか弱々しく、肩のあたりがほんの少し震えたように見えた。
寒風のなか、二人の後ろ姿がゆっくりと離れていく。
弘明はしばらく動けなかった。
(親父も……歳を取ったんや)
父がただ怖いだけの存在ではないことを、いまさらのように思い知らされた。厳しさの裏には、不器用で、言葉にならない願いのようなものがあったのだろう。
冬の風が、ほんのわずかにやわらかく感じられた。
(つづく)
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