【最終話】第14章(その3)
9月9日金曜日夕刻――、M/V Ocean Lionは、ようやく紀伊水道へ入っていた。
「よーし、取舵5度……あとはヨーソロー」
緒形はそう言うと、キャプテンシートに身を預ける。
何時間ぶりか——もはや思い出せない。
それほどまでに、彼は立ち続けていた。
「Aye aye sir、取舵5度でSteady——」
下村の声は、どこか張りつめていた。
「他に……舵を握れる者はいないのかな?」
その緒形の言葉に、下村は即座に応じた。
「いえ、最後まで私がやります——」
その強い口調――緒形ははっとした。
自分は何を言ったのか。人を思っての一言が、時にその誇りを傷つける。言葉の重さを、改めて噛みしめた。旋回窓の向こう、叩きつける雨の中で、海はまだ荒れている。だが風は落ち、波も確実にその勢いを失っていた。
(思えば——)
緒形の脳裏に、社長の徳田の顔が浮かぶ。
静岡の造船所で初めて出会った。
あの日、あの時も試運転の船上だった。
一見すれば、近寄り難い風貌だったが、船内泊で偶然酒を酌み交わし、その夢を語る徳田の姿に、若き日の緒形は惹かれていった。
「一緒に造船所を造ろう——」
その一言で、同じ設計の仲間十数名と共に、四日市へ移った。
建設現場に建てたプレハブの事務所で、最初に建造する鮪船の線図を引いた。まだクーラーもない部屋で、流れる汗をタオルで拭きながら、ただ必死だった。
最初の船を進水させた時、あの感動は今も忘れない。あれから十数年。いまや夢を語った二人は、決定的に袂を分かってしまった。
船を造って、鮪を取り、それを冷蔵して世界に販売する。
その夢を語った男は、会社を潰し、新たな資本で再生しようとしている。
造船を捨て、橋梁へ、流通へ——。その構想を聞いた時、緒形は初めて反旗を翻した。
オイルショックが時代を変えた。
遠洋漁船の需要は消え、商船へ。だが貧すれば鈍する。徳田は計画倒産の道を選んだ。
(それでも——)緒形は、諦めきれなかった。
その頃、Officeでは、設計陣が三々五々、床や椅子に身を横たえていた。
疲労と空腹が、静かに身体を支配している。
「村田さん、やっぱ緒形部長はすごいですね」
弘明が、素直な声で言う。
「うーん……そりゃあ、部長やからな」
村田は短く応じた。
「これで、会社の再建も間違いないですね」
その言葉に、志垣が静かに口を開いた。
「いや、そうはうまくいかんやろ……」
と、いつもの調子だが、誰も否定はしない。
「それでも新造船も決まったんやで——」
弘明は食い下がる。
村田は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。事情は、誰よりも分かっている。会社更生法、その先に待つ現実——。簡単な道ではない。
それでも彼は言った。
「まあ、やることやったら、なんとかなる」
その顔には、いつもの笑みが戻っていた。
船には、設計、メーカー、現業——合わせて十八名。積み込んだ食料は三日分。だが荒天の中で、まともな食事など望めなかった。それでも——誰一人、手を止めなかった。
気象庁は、この日、最大風速三十九・四メートルを記録している。
だがその暴風は、まだOcean Lionには届いていなかった。
船は、大阪南港を目指して進む。
ブリッジに立つ緒形。舵を握る下村。
設計と現業——。これまで張り合ってきた者たちが、いま同じ船を動かしている。
緒形には、会社を立て直す策があった。だがこの航海を通じて、彼は気づいた。
設計だけでは、何も出来ない。
経営と設計と現業——それらがひとつになって、初めて船は生きる。
その道筋は、まだ見えない。
だが確かに――今、ここから始まろうとしていた。
「造船所物語・第1部」(完)
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[note|著者ページ]
https://note.com/right_canna2847
[AMCO知見Lab|公式サイト]
https://qs07n.hp.peraichi.com/
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長い間、「造船所物語」を読んで下さり、誠にありがとうございました。
人の人生には、それぞれに春夏秋冬があるのだと思います。
短くとも、長くとも、その季節は確かに巡っていきます。
この物語は、私が若い頃に経験した「倒産」を題材に書いたものです。
トラウマだったのかも知れません。
ですが、その経験があったからこそ、小説を書くようになりました。
いつかまた、「第2部」でお会いできればと思います。
本当に、ありがとうございました。
船木




