第14章「主舵十度――、転進せよ」(その1)
「部長、村田課長から1番に約2メートルのFree water――排水ポンプ用意します」
「1番ホールド――」と言って下村を振り返り、緒形は絶句した。
「ハッチの締め忘れだと言って、ドックマスターが潜ったそうです――」
「有田さんが……、あの人、確か心臓が……」
そこまで言って緒形は悔いた。
伊良湖岬での彼とのやりとり……余計な一言――あの時、あえて言う必要はなかった。だがもう遅い。絶対に明日、いや今日中に船村造船へ入らねば、それでなくても遅れている工程がと思い直して、悔いる自分を止めた。
だが、それからの時間が長かった。
時化はますます激しくなり、横揺れ縦揺れ――。
まるでOcean Lionは、自らの意思で嵐の中を突っ走っている――そんな錯覚に陥った。
だが、船体が木の葉のように揺れ、轟音に包まれる中、突然耳を劈くような音が響いた。
「ドッツ、ドドドドーン」
と、背後から覆いかぶさるような音がブリッヂを襲った。
鈍い衝撃を伴う音で、ドンドンと明らかに物がどこかに当る音が続く。
咄嗟に緒形は舷側に駆け寄り、体を滑り戸に預けながら外へ出ると、すぐ後方を見た。
幸いそこには風防があり、船首から吹き上げる風は和らぐ。
それでも風に煽られながら船尾を見ると、積荷のないハッチがあるだけで、その後のデッキは見えない。
(確かあそこに、仕上塗料のドラム缶が……)
本船が岸壁を離れる前に、乾ドックでの塗装用塗料を、船尾の係船甲板に搭載した。
その数、五十本近いドラム缶――。
あれが動けば、船尾はどうなるか分からない――と思うと、ぞっとした。
だが海は、もはや形を成していなかった。黒い塊がうねり、砕け、再び盛り上がる。怒涛の勢いで盛り上がったかと思うと、たちまちその頂は砕け散り、海が沸騰するように沸き立つのだった。
そのまま緒形が濡れ鼠になってブリッヂへ戻ると、彼に向かって下村が叫んだ。
「部長、クリノメーターが飛びました――」
緒形はブリッヂ前面の「傾斜計」を見た。
と、船の横傾を示す針が振り切っていた。
(まさか――、そんな……)
傾斜計の限度角は45度――針は振り切れ、戻らない。
船体がそれ以上傾いたのだ。
すでに反対舷のサイドボード上に据え付けられた海上無線通信機器は途絶えた。
会社との連絡はもとより遭難信号も出せない。
その間も、船尾からあらぬ音が聞こえる。
「船尾に積んだドラム缶が荒れ狂っている」
それを聞いた下村は、再び顎を引いて脚を広げると、膝を折って構える。
そしてレーダー正面の風向風速計を見ながら緒形に叫ぶ。
「部長、風向きが変わります……」
Ocean Lionのレーダーで台風の目は確認出来ても、その進路までは分からない。
だが確かに風向きが南寄りに変わっている。
緒形は思案に暮れた。
疲れ切った頭を叱咤激励した。
(南風……台風が北に振れてこっちに来る)
風は台風の目に向かい反時計回りに渦を巻く。
つまり東風が南風に変われば、船は北に戻される。
もう嵐に逆らうことは出来ない。
「紀伊水道へ逃げる。もう追波は避けよう」
「……Aye aye sir、なんとかやってみます」
そう言うと下村は、レーダーの距離レンジを変えて間合いを計る。一方緒形は、コンソールの電話で機関室に一報を入れると、一度電話を切って船首倉庫の村田にかけ直した。
「これから進路変更して、紀伊水道へ入る」
「えっ――、ちょっと待って下さい」
村田は現場へ何か言うと、すぐ声を返した。
「水は止まったので、先に排水ポンプを――」
騒音の中で叫ぶ村田に、緒形は決断した。
「時間がない。排水と同時に転舵する――」
電話を切った緒形は、身をコンソールへ預けると、満を持して下村に命令を下した。
「1番排水ポンプ作動――、面舵十度――」
(つづく)
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