第1章「満潮の四日市港」④
第4話「船が海へ滑り出す瞬間」
支綱切断の斧が振り下ろされ、シャンペンボトルが勢いよく船首へ飛んだ。
直後、乾いた破裂音とともに泡が弾け、冬の朝日に細かな光が散った。潮風に混じる甘い香りが、一瞬だけ式台の緊張をほぐした。
その直後、船体がわずかに震えた。
数千トンの鋼が進水架台で身じろぎし、傾斜に沿ってゆっくり滑り始める。金属が擦れる低い唸りが船底から立ち上がり、やがてその音は波のざわめきへ変わっていった。
弘明は息を呑み、対岸の灯台と船首の位置を重ねて確認した。
満潮、トリム、排水量……机の上で積み上げた計算が、いま巨大な物体の動きとなって姿を現していく。
(……計算どおりや)
胸の奥で固く拳を握る。だが次の瞬間、進水架台脇のコンクリートブロックを繋ぐチェーンに、不意に強いテンションが掛かった。
海側のブロックが動き出し、続くブロックも引かれてガリガリと砂を巻き上げながら滑っていく。予定どおり……のはずなのに、弘明の耳がざわついた。チェーンの音がどこか乱れている。
そう思った刹那だった。沖へ向かっていた船体が、不自然に失速した。
弘明が目を凝らすと、チェーンと船体を繋ぐワイヤーロープが、海面から“もんどり打つ”ように跳ね上がった。
(なんや、あれは――)
バンジージャンプのロープが跳ね戻る直前の、あの独特の反動。
まさにその動きが、今、船とブロックの間で起きていた。
「……ああっ――」
思わず、弘明は声を上げた。
加速を増した巨大な船影が、岸壁ゲートへ一直線に迫る。
制御を失った船体は、鋼の塊と化して岸壁へ突進した。
ドーン――。
冬の空気が震え、遅れて白い波が岸壁に打ち寄せた。
弘明の頭の中では、排水量、モーメント、浮力、トリム……数式の断片が渦を巻き、どれも答えへ結びつかない。
岸壁に不自然な角度で止まった新造船から、船体のきしむ音だけが冷たい風に混じって聞こえてきた。
この造船所は、いつまで踏ん張れるのだろう――。胸の奥に巣くった小さな不安が、いまは確かな影となって広がり始めていた。
弘明は、頬を刺す冬風の中、軋む船体へと歩みを進めた。
第1話「満潮の四日市港」(おわり)
(第2章へつづく)
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【造船所物語|富双造船篇】第2章(全4話)
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