第13章「闇に消えた白いシャツ」(その1)
「部長、船尾からの波で舵が効きません」
双眼鏡を手に、操舵室の前方に立って船首を見ていた緒形は、下村の声に振り返った。
見れば下村は、いつ用意したのかロープで自分の腰を操舵スタンドに巻きつけている。両足を突っ張り、舵輪を握り続けている。
緒形もすでに時間の感覚が無くなっている。船が大きく揺れる中、窓の下の手摺に腰を押し付けながら立っているのが、精一杯だった。
「串本の沖を抜ければ、風向きが変わる。もう少しだ――」
そう叫んだものの、緒形にしても風が凪ぐという確証はない。
ただ今は舵を握り続ける下村を励ますしか、他に打つ手はなかった。
鹿児島南方にいる低気圧の進路は北北西。だが、東の風が風速20m、波高6m、波長は100mを超える。船の全長に近い波だった。
逆巻く波が、Ocean Lionの船尾から絶え間なく襲ってくる。伊勢湾を出て約六時間、だが荒れる海に船速は十ノットほど。ようやく紀伊半島南端の串本沖に差し掛かる所だった。
「下村君、ペラを出さぬよう、なんとか当て舵で操ってくれっ――」
「Aye aye sir」
追い風はともかく、船尾からの波に船は縦揺れを起こし、その度にプロペラが空転する。
出港時の喫水計測でトリムを修正したものの、想定を遥かに超えるSea Conditionだった。一定の波なら舳先から突っ込める。だが早足の低気圧だけに操船はままならなかった。
波高6mで、長さ100mを超える波長のうねり……と言うことはつまり、波の山と山の距離が船の全長に近い。もし船体が山の頂に乗り上げれば、プロペラが宙に浮かぶ。
この場合、急勾配の山を登るように船を波に向かって斜めに操船せねば、プロペラが空転し主機や軸系にダメージを与える。それが続けば――Dead ship――それを避けるために、紀伊水道から遠ざかるばかりだった。
進路を戻すか、
はたまた低気圧を避けるべきか、
いよいよ緒形は決断を迫られていた。
「下村君、無理して紀伊水道へ入ることはない。このまま直進してどこかで反転しよう」
「Aye aye sir、⋯⋯助かります」
下村は寡黙に、レーダーとブリッジ前面の風向風速計を交互に見ながら操船していた。
緒形はコンソールの受話器を取って機関室の折戸に連絡を取る。機関室の方も、プロペラの空転を防ぐべく主機の回転を調整するなど、それこそ回航要員全員が修羅場だった。
誰もが恐怖心を抱く。それは、川を流れる木の葉が波に揉まれ、まだ見えぬ先に流れ落ちる滝が近づいてくるような恐怖感⋯⋯波も雨も風も見えない機関室はなおさらだった。
その頃、弘明は風圧に押された鋼製ドアと格闘していた。
ちょっと外を⋯⋯と開けたものの、おいそれとは閉まらない。
外へ出て雨風に打たれながら閉めようとした時だった。
(なんや⋯⋯この揺れ方は⋯⋯)
船首方向を見据えた弘明は、船首甲板にあるWater Brakeの壁にフォーカスした。そこには壁と抱き合わせるように、マストが立っている。そのマストの揺れが奇妙だった。
(1、2、3、4⋯⋯)と、頭で秒数を数えながら、船の動揺周期を測っていた。右へ1、2、3⋯⋯と数えて、それは何度目かだった。
マストの揺れが止まったかと思うと、
逆に振れて1、2、3……と、
そこでまた反転。
(これは……確か……)
卒業単位ギリギリで大学を出た弘明だが、卒検でやった試運転のことは、まだ記憶に新しい。そこで覚えた単語が頭に浮かんだ。
「これはFree Water……の現象に違いない」
念の為もう一度数えた。だが間違いない。
そう思うと、なぜか四肢に力が漲り、あれほど締まりにくかった鋼製ドアを締めた。そしてクリップを二つ三つと締めると、通路へ戻った。そのまま階段室へ急いだのだった。
(つづく)
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