第12章(その2)
「Aye aye sir――」
その下村の言葉に、後方に立っていた弘明は面食らった。
なにしろバイリンガルなのである。
見た目はどこか遠く草原の国から来たような顔の男だが、その発音は抜群だった。彼が長く外国船に乗っていて、縁あって富双に入ったと、弘明が聞くのは後のこと。
下村の返事を皮切りに操舵室が動き出す。
窓際にいた緒形が、操舵室中央のブリッジコンソールに歩み寄る。そこで前方から腕を伸ばすと、埋め込み式の受話器で電話を掛けた。
「緒形です。予定を早めて、これから伊勢湾を抜ける。主機のスタンバイはいいかな?」
相手は機装設計の折戸課長。彼が回航要員として機関室を守る。緒形のことである、恐らく事前に協議を済ませていたのだろう。
朝、富田浜丸に乗り込んだメンバーの中に、主機メーカーの人間が三人いた。折戸の指示下に彼らがいれば、これ以上の布陣はない。
「分かった⋯⋯」
そう言って電話を切った緒形は、それまでとは違って、穏やかな視線を下村に送る。
「よし、アンカー揚げて、出航しましょう」
「Aye aye sir――」
そのやりとりを聞いて、村田が動き出した。
弘明に手で合図すると、緒形の傍へ向かう。
そして声を掛けた。
「すみません、サウンディングの報告です」
「ああ、どうだった?」
「トリムが少し足りません。アフトにバラストからシフトして……」
村田の報告を聞いて、弘明は唖然とした。
(村田さんも事前に部長と……)
それは当たり前の話なのだが、操船に詳しくない弘明には、とても難解な話だった。
「マスター、Aft peak tankに5トン、二重底の5番バラストを移してくれる」
「Aye aye sir」
打てば響く下村の声に全員が襟を正す。
それは水を得た魚のように、キビキビと動く。
下村はWalkie-talkieを片手に、甲板にいる回航要員に指示を出す。
こうしてOcean Lionは、仮泊場所からアンカーを揚げると、前進全速で伊良湖水道へ向かったのだった。
その頃、北北西へ向かっていた低気圧が、さらに発達して気圧が低下していた。
富双造船の首脳部が回航の決定を下したのは前日の午後。その時、低気圧は東シナ海を横切り、中国本土へ逸れると考えられていた。
だがその背景に政治的な思惑があったことは否めない。吉田も緒形も、これ以上の工程の遅れを見過ごす訳にはいかなかったのだ。
伊勢湾を南下し始めたOcean Lionのブリッジで報告を終えた弘明は、階下へ降りた。
事務室で弁当をもらうと、上甲板上の部屋に入った。回航中、これといった仕事はない。割り当てられた部屋で弁当を使った。
部屋は窓際に二段ベッドとソファーがあり、あとは机周りにTVと冷蔵庫くらい。冷え切った弁当を食べると、あとは寝るしかない。
寝台で横になると、持ち込んだ文庫本を読む間に、うとうとしてしまった。
どれほど時間が経っただろう。
弘明は寝台の狭いベッドの上で目が醒めた。
すると、自分の意思とは違って体が右に左に揺れる。見上げる天井は動いていない。自分の体だけがクルクル動く。
なんだと思って見ると、真横にある丸窓から外を見て混乱した。
どす黒い空が、体の揺れと反比例して動く。
思わず上半身を起こすと、ガラスの外は水滴だらけ。
その向こうで空が動いている。
だが、どす黒い空が見えたかと思うと、今度は底知れぬ碧い海……。
まだ日は落ちていない。
だが、どう見ても尋常ではなかった。
(つづく)
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