第12章「最終決断」(その1)
9月8日、木曜日。
午後も遅くなった頃、回航要員はすでに乗船を終え、引き渡しのタグも有田の部下の手で戻っていった。
M/S Ocean Lion は静かに錨を下ろしたまま、伊勢湾の闇に浮かんでいた。波もなく、風もない。甲板を踏む靴音と、機関室から伝わる低いうなりだけが船体を満たしている。
この穏やかさが、これから来るものの前触れとは、誰も思っていなかった。
ドックマスター・有田は、外航船一筋に生きてきた男だ。六十近い年齢を感じさせない、武道でも積んだのか、がっしりとした体躯に白髪が映える。徳田社長に乞われて富双造船に入ったのは、もう何年前のことになるか。
当初は造船所のことなど右も左も分からなかった。しかし徳田という人物の懐深さに惚れ込み、外航船乗りとして世界を渡り歩いた経験を注ぎ込んだ。
会社更生法の適用後、管財人の指名とはいえ、荒れた現場をまとめ上げてきたのは有田の尽力に他ならなかった。なぜ経営危機の造船所に留まっているのかと問われれば、答えは一つしかない。
徳田に拾われた恩を返すためだ。
その恩義が、有田の行動原理のすべてだった。
一方、設計部長の緒形は細面の、まるで鋼のような男だった。感情を表に出さず、物事を徹底的に合理的に判断する。
有田の持つ経験と組織掌握力を、緒形は決して軽んじてはいなかった。会社更生法の適用後、現場のモチベーションを保ち続けてきたのは、有田の尽力であることも理解していた。
だが今この瞬間に限っては、そんな評価は関係なかった。Ocean Lionを工程通りに大阪へ届け、契約金を受け取る。
その一点に緒形のすべてがかかっていた。背後には極東興業社主・小野田の影がある以上、失敗は許されない。
衝突は操舵室で起きた。
弘明が村田とともにバラストタンクのサウンディング計測を終え、トリム計算を済ませて操舵室へ向かっていると、階段の途中から怒声が響いてきた。
冷徹な声は緒形、感情的に反駁するのは有田に違いなかった。
「試運転を止め、紀伊水道へ入りましょう」
「駄目だ。試運転の終わっていない主機で、船を嵐に向ける訳にはいかん」
「でも、今なら間に合います。それともマスターには、反対する訳があるんですか」
最後の一言が有田の逆鱗に触れた。
「なに……何を言いたいんだ、君は」。
だが緒形は動じない。
「会社の命運がこの船にかかっている、あなたが責任を取ることはできないはずだ」
その緒形の言葉のひとつひとつが刃のように刺さった。一歩も引かぬ緒形に、有田は遂にこう言い放った。
「……なら、勝手にしろ。私は運航責任者を降りる。君らで運行すればいい」
しかし緒形はそれすら封じた。
「いや、あなたには大阪まで回航する義務があります。降りるなら、代わりの人間を指名してからにして下さい」。
有田は振り返り、海図室に控えていたマスター見習・下村に怒鳴った。
「おい下村、お前が操船代れっ」
困惑した表情で立ち尽くす下村を残し、有田はそのまま操舵スタンドを離れ、無言のまま部屋を出ていった。
操船の最高責任者がいなくなった操舵室に、重い沈黙が流れた。窓際に立つ緒形の細身の体は鋼のように張り、誰も抗えない静かな気迫を放っていた。
「下村君、船を出してくれますか」。
緒形のその一言で、M/S Ocean Lion の命運は決まった。
(つづく)
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