第9章(その2)「底冷えのする部屋」
1977年(昭52年)3月6日、日曜日。昨夜から造船所は、北西の風に曝されていた。
安全靴を履く足の指の感覚は消え、首に巻いたタオルでさえ凍えるように冷たい。
弘明は、前日の夕方から岸壁に係留された新造船の警備にあたり、ちょうど交代で設計の部屋へ戻ってきたところだった。
「おい、これからどうなるんやろ……」
弘明は、安全ベルトをしたまま、壁に背を預けた。まだ夜の明けやらぬ窓際に腰を落とし、横に座る志垣に問い掛ける。
「部長が組合と協力するってことは、俺らにも組合に入れってことやろなあ……」
電算機室の志垣は弘明と同期入社。歳はひとつ上だ。左腕が小児麻痺で不自由だが、片手で野球をするほどの頑張り屋だった。
「なんやそれっ――。俺は会社がどうなるのかって、聞いとるんやで……」
弘明の声は疲れで尻すぼみになる。
志垣も度の強い眼鏡を外し、目頭を押さえていた。互いに顔を合わせぬまま、ただ言葉だけが凍てつく部屋の中で行き交う。
「会社が倒産したら、組合に入らんと失業保険ももらえやへんわなあ……」
「でも新造船が決まったら再建できるって、部長が言うとったやないか」
「あほやなあ。この夕刊読んでみい。これからどれだけ掛かるのか、分からへんで」
そう言うと志垣は、よれよれになった新聞を差し出して、弘明に渡した。
恐らく、何人もの手を渡ってきたであろう新聞の紙面に、富双造船が四日市地方裁判所へ会社更生法を申請した記事が載っていた。
それと共に、富双造船の成り立ちや、造船界の現状分析が並んでいる。弘明は、睡眠不足で朦朧とした目で文字を追った。
そのときだった。
「おい、そんなもん読まんでも目の前に現実があるやろ。いらんもん読むな――」
頭上から雷が落ちた。薄汚れた防寒着を着たまま、仁王立ちした艤装設計の課長が、床に座り込む二人を見下ろしている。
(なに言うてるんや……そんなこと言うとるから、会社が潰れるんやろ)
そう毒づきそうになる言葉を、弘明は喉で止めると、悔しさだけが込み上げてきた。
新聞を握る手が、かすかに震える。
なぜ腹が立つのか、自分でも分からない。
ただ風呂場で母から聞くまで、なにも知らなかった。さっきまで働いていた職場が、突然なくなると、公共放送が伝えていた。――そんなことを、誰が想像できただろう。
入社して二年。弘明は闇雲に働いてきた。だが経営のことなど考えたこともない。ただ指示された仕事をこなしてきただけだ。
その自分に向けて「現実を見ろ」と言う。
理不尽ではないか――そう思いながらも相手は上司だ。睨み返すことしかできない。
(女に振られ、会社が潰れ……)
胸の奥に押し込めていたはずの思いが不意に浮かび、たちまち息苦しくなる。
ヘルメットを脱ぎ、壁に頭を預けて目を閉じる。だが暗闇の中に浮かぶのは史子の白い肌だった。その、触れた感触まで蘇る。
なんで今さらや……。
目を開けると、志垣は壁にもたれたまま、項垂れるように眠っている。
設計は緒形部長のカリスマで持ってきた。部長の言葉に従えば道は開ける。
――そう信じてきた。
だが今、それを支える管理職の非力が、露わになっている。たとえ会社が残ったとしても、その先に希望があるのか。
底冷えのする部屋に、あさあけの光が差し込み始めていた。だが弘明の胸の奥は、まだ夜のままだった。なぜか――
「彼氏が行くなと言うけん……」
史子の声が、荒野のように殺伐とした弘明の心の中で、鈍く響き続けていた。
(つづく)
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