第1章「満潮の四日市港」③
第3話「式典の裏で揺れる“大人の事情”」
「——それでは、ただいまより命名式に移らせていただきます」
司会の声がひときわ大きくなり、式台の上で数人が立ち上がった。紅白幕の前に、新造船の銘板がかかげられる。そこには、これから海へ出ていく船の名が、黒々とした文字で刻まれていた。
命名者として紹介されたのは、船主の親類にあたるという若い女性だった。
薄い色の振袖に白いショールを掛け、緊張した面持ちで式台の中央へ進み出る。
紹介が終わると、控えめな拍手が起こった。
だが、その拍手はどこか上の空だった。
誰もがとりあえず手を叩いているだけで、その目は別の方向を向いている。
船主はオーナーの顔色をうかがい、オーナーは社長の表情を盗み見ている。
社長の視線は、そのさらに向こうの代理店か、あるいは銀行の支店長あたりをさまよっていた。誰も、真正面から互いの目を見ようとしない。
紅白幕の明るい色の下で、そうした視線の動きだけがやけにくっきりと浮かび上がっていた。
(腹ん中で、何を計算しとるんやろ)
弘明は、袖口の中で指を組み替えながら思った。
彼らの背後には、融資の枠やら為替の動きやら、世界の景気やらがずらりと並んでいるのだろう。大学の講義で聞きかじっただけの言葉が、いま目の前の現実と結びついている気がした。
命名が滞りなく終わると、今度は支綱切断である。式台の脇に張られた細いロープの前に、先ほどの女性が斧を受け取り、静かに構える。
場内スピーカーから軍艦マーチの前奏が流れ出し、港の冷えた空気を震わせた。
弘明は、少しだけ背伸びをして船首の方を見やった。
宙に吊られたシャンペンボトルが、冬の光を受けて淡く光っている。あのガラスにも、営業の誰かが昨夜、ガラス切りを当てて幾筋もの傷を入れたのだろう。
(割れへんかったら、誰のせいにされるんやろな)
半分冗談、半分本気でそんなことを考えてしまう。
もしボトルが割れず、船も動かなければ、誰かがトリッガーを押し出すことになる。押しても動かなければ、今度は始末書の書き手を探す番だ。
そのどれにも、自分の「進水計算」という言葉がうっすらと影を落としている気がした。
(これが最後の進水式になったら……)
ふと浮かんだ言葉を、弘明は慌てて頭の中から追い払った。
そんな未来を想像するには、まだ早すぎる。
二十三歳の自分に許されているのは、失敗を恐れて立ちすくむことではなく、ただ目前の数字と現場にしがみつくことだけのはずだった。
(つづく)
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【造船所物語|富双造船篇】第1章(全4話)
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