第9章(その1)「背後で蠢く力」
1977年(昭52)3月5日、土曜日。倒産から二日目の朝、前日から雪花が散り続き、気温は零下四度を下回っていた。
御在所岳から吹き下ろすからっ風が、ただでさえ人影の消えた富双造船を吹き抜け、操業停止の現場をさらに凍てつかせていた。
ようやく長い一日が終わり、夜の帳が降りていく、それは午後9時を回った頃のことだった。
(ルールルル……)
くぐもった音が、机の奥で鳴った。
席に残っていた緒形は、思わず眉をひそめた。
(なんだ、こんな時に……)
鍵の掛かった抽斗の奥――公安との直通電話だった。
緒形は腕を組んだまま、しばらくその音を聞いていたが、やがてゆっくりと腕を解くと、ポケットからキーホルダーを取り出し、抽斗の鍵を開けた。
受話器を取り、膝の上に載せる。
「もしもし……」
「緒形部長ですか」
そんなやり取りから、会話は始まった。
「ええ……」
「今……大丈夫ですか?」
「そうでなければ、取りませんよ」
「たいへんなことになりましたね」
正直、あまり話をしたい相手ではない。だが今の緒形には情報が必要だった。
この電話は、会社と組合の紛争が最高潮に達した頃、先方から持ちかけられた。副社長に理を説き、受け入れた経緯がある。彼らの常套手段だが、断る理由もなかった。
「やはり、組合と手を握るのですか?」
――もう、そこまで掴んでいるのか。
そう思いかけたが、緒形はすぐに打ち消した。隠し通せることなど、彼らには何一つない。それよりも、ここは聞くべきだ。
「どこから、それを?」
「まあ……それが仕事ですからねえ……」
答えるはずがない。それは承知している。それでも話の輪郭は、まだ見えなかった。
「さっき、正門にトラックが……」
「ああ、それはダミーです」
「分かっています。だから岸壁の新造船は、設計の方で巡回することにしました」
「ただ、組合のオルグが東京を出ました。彼らを巻き込むと、まとまる話も……」
いったい彼らは、何を守ろうとしているのか。そんな疑念を抱いたまま、緒形は黙って相手の言葉を聞いていた。
「彼らは、どこまでも団体の維持が目的です。個々の会社の存続など、眼中にありません。組合を遺すことが最優先なのです」
設計と組合がタッグを組むことを、彼らは嫌っている――と、緒形は感じた。そう考えると、この電話の趣旨が見えてきた。
「しかし……設計部員も社員ですからね」
「設計が、最後の砦……ということですね」
「ええ。今なら、どこにも負けない……」
「ただ緒形さん。船主が嫌うのは労働争議だ、という声もあります。大丈夫ですか」
緒形は戦中派だった。会社に抗う組合とは、どうしても相容れないものがある。権利を主張するのは結構だが、会社がなくなれば、その権利も宙に浮く。
かつて、学生運動を遠巻きに見ていた頃の記憶が、ふと重なった。国権に抗い、やがて現実に飲み込まれていった若者たち。
造船所も同じだ。いくら従業員が騒ごうと、自転車操業の中小企業が、スポンサーなしで生き残れるはずがない。
(だが、我々には――)
緒形の脳裏に、眼光鋭い小野田の顔が浮かんだ。現役首相の逮捕という未曾有の危機に直面しながらも、極東興業はいまだ健在だ。技術力さえ維持できれば――。そうした目論見を、公安の一言が打ち砕いた。
「まあ、刎頸の交わりと称する力も、アメリカの前では風前の灯火ですがね……」
彼らが何を掴んでいるのか、緒形には分からない。ただ一つ、時間がない。
(つづく)
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[note|著者ページ]
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