第7章(その3)「翻る赤旗の奥へ」
3月4日金曜日の午後、緒形は新幹線で名古屋へ向かい、近鉄特急で四日市へ。
駅でタクシーに乗った頃には、もう日が暮れていた。まだ小野田との会話を引きずっていたが、それでも車窓に見慣れた工場のシルエットが映ると、気を入れ直した。
会社に近づくにつれ、忙しかった頃のように、夜間操業の構内灯が点いていた。
だが国道から側道へ入り正門へ向かうと、そこは探照灯で照らされ、普段なら防犯灯だけの暗い正門が別世界。ゲートは閉ざされ、門扉の上に数多の赤旗が立っている。
正門前でタクシーを降りると、運転手がトランクから出してくれたバックとスーツケースを受け取り、おもむろに正門へ向う。
近づくにつれ、背後を走る国道の喧騒と、内部からの騒めきに挟まれながら、緒形は
通用門を開くと中から熱気が溢れてきた。
騒然とした守衛所の周り、明らかに工場は占拠されている。事務所への道は赤鉢巻をしたヘルメットで埋め尽くされていた。
彼らは正門を守るべく、十重二重に隊列を組んでいる。恐らく現業から数百人の従業員を動員したのだろう、広場全体に群れる男らの熱気が、暗い空に立ち昇っていた。
「おい、設計部長⋯⋯、緒形部長や――」
隊列の中に見知った者がいたのだろう、そんな声が飛んだ。だが通用門から入った緒形は、まともに当たるサーチライトの光に目が眩む。思わず手を翳して光を避けると、前を塞ぐ男たちの顔が浮かんできた。
中には十代の若者がいる。まだ作業服が身についていない。その姿に緒形は、倒産という現実をまざまざと見せつけられた。
(恐らく彼は、徒党を組む意味を知らない。あの頃自分は、青春の真っ只中⋯⋯)
そう思う緒形に、現実がヒタヒタと押し寄せる。彼らに取って青春は、会社で働き給与を得て⋯⋯と思うと、身につまされた。
造船所の現業は、五十度を超える灼熱の中、はたまた寒風の吹きすさぶ中で、ものを造らねばならない。彼らの若き力がなければ船は造れない。その彼らが今職場を放棄し、徒党を組んで工場を占拠⋯⋯。
これは経営者の責任――、その一念が長い独白となって、緒形の心に流れていた。
一報を受けた時の胃液が逆流するような焦り、長いフライトで悶々とした記憶、そのすべてが甘かった。人垣から湧き立つ人いきれを前に、その責任の重さを痛感した。
「部長、ニューヨークはどうでした?」
ガラス張りの守衛所の脇から大きな腹を突き出して、一人男が出てきた。組合委員長の赤崎である。緒形も取締役として団交の席で何度もやりあった相手だった。
肥満としか言いようのない体躯は、いったい造船所のどの職場で通用するのかと思わせる程、まったく締りのない体だった。 彼は太い腹を運びながら緒形の前にきた。
「今、私から話をすることは何もない」
「そんなことを言っている場合ですか。ここに集まっている皆に、そう言えますか」
その赤崎の瞳の見えない目からは、何の感情も伝わってこない。苦手と言えば緒形の最も忌み嫌う相手だった。だがここで揉めても意味がない。緒形は生理的な嫌悪感を押さえながら、淡々と答えた。
「私はどうなっても良いが、何か私を中へ入れない理由が、君にはあると言うのか」
「話が聞けるなら、入れても良いですよ。なにしろ残っている重役はあんた一人なんでね。皆さんトンズラしたみたいでね、あんたをここで逃がす訳にはいかない」
――誰が逃げると言った――という言葉を、緒形は飲み込んだ。団交ならともかく、今は多勢に無勢、我慢のしどころだった。
「まあ⋯⋯、ゆっくり話をしましょうや」
その太々しさ、緒形は我慢ならなかった。
(第8章へつづく)




