第1章「満潮の四日市港」②
第2話「造船所が変わり始めた日」
進水準備完了の声が式台に伝えられ、司会役の声がスピーカーから流れはじめる。台本どおりの挨拶と紹介が続くあいだ、弘明の意識は別のところをさまよっていた。
入社した年の春、初めて富双造船の構内を案内されたとき、そこはまさに「生き物の腹の中」のようだった。
鋼材置き場には赤錆びた山が築かれ、ガス切断機の青白い火花があちこちで飛び散る。漁船用の船台には、まだ塗装もされていない鋼板が貼り付けられ、気の荒い船主が腰に手を当てて溶接線を睨みつけていた。
艤装岸壁には、大小さまざまな漁船がひしめいていた。
氷の入った発泡スチロールの箱、網の山、浮き玉、タバコの煙。
甲板からは、漁師と職長の怒鳴り合う声が絶え間なく聞こえてきた。
その風景が、第一次オイルショックを境に一気に変わった。
燃料代の高騰で新造漁船の注文がぱたりと止まり、年内に予定されていたはずの契約が次々とキャンセルになったと聞く。
その代わりに現れたのが、今目の前にいるような商船だった。
全長百数十メートル、ビルのような上部構造。
岸壁に横付けされた船体の腹には、工事用の四角い開口が穿たれ、そこから何十本ものケーブルがタコの足のようにはみ出している。
最初のうちは、その巨大さにただ圧倒されていた。
大学で習った静的強度だの、座屈だのといった教科書の言葉が、ようやく目の前の鋼板やフレームの形と結び付いた気がした。
ところが二年目に入るころから、その巨大な船体でさえ、どこか持て余しているように見えはじめた。
船台での建造期間は伸び、岸壁での艤装工事もだらだらと長引く。なのに、人の姿は目に見えて減っていく。
現場から戻ってくる先輩設計者たちの表情も、いつの間にか疲れたものになっていた。残業申請は渋られ、夏には一時帰休という言葉まで飛び出した。
「今年のボーナスは、出るかどうか分からんらしいぞ」
喫煙所で聞いたそんな噂話が、冗談にならない空気を帯びはじめたのも、ちょうどその頃だった。
弘明は、式台に並んだ上層部の横顔を改めて見上げた。
徳田社長は、いつもより背広の肩が小さく見える。隣の内田副社長も、ポケットに入れた手をなかなか出そうとしない。
(この進水が、会社の行く末を左右するんかもしれんな)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
それは決して大げさな想像ではない、と肌で感じられるほど、造船所の空気は変わってしまっていた。
(つづく)
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【造船所物語|富双造船篇】第1章(全4話)
次回:第3話「式典の裏で揺れる“大人の事情”」




