第5章 ③
(第3話)「闇に浮かぶジブクレーン」
「山岡さんの、お宅ですか?」
その声は庄司次長だった。
言葉の短さに、いつもの軽さは間違えようがない。
「はい⋯⋯、山岡です」
「おう、テレビ見たか?」
「はい、見ました⋯⋯」
それは上司であり、同じ大学の先輩だという事実を裏打ちするような物言いだった。
「すぐ、会社へ来い」
「ほんとに――、本当に会社は倒産したのですか?」
「なんでもええから、はよ来い――」
さすがの庄司次長も取り付く島がない。
それを言うと電話を切った。
行くしかない――と思った弘明は、なにはともあれ着替えるべく2階へ上がった。
就職した頃は実家から通っていた。2階の8畳間が自分の部屋で、そこは今も変わらない。
初めてのボーナスをはたいて買い揃えた、ステレオコンポ。今から思えば、同級生の中で一番の給与をもらい、家に5万を入れても、まだ独身貴族を謳歌していた。
それもこれも会社があってのこと。その会社が倒産⋯⋯その目に見えぬ事実が、重く両肩にのしかかっていた。
それでも動かなければと、
着替えた弘明は玄関へ降りた。
それこそ心配で堪らないといった表情の両親が、玄関で待っていた。居間のサイドボードに置いた車のキーを、神妙な顔をした父が自ら弘明に手渡してくれた。
もう十年近く乗っている父の車、夏のボーナスで自分の車を買おうとしていた目論見も露と消えた。新車で史子とドライブしようとしたが、それも夢のまた夢。
(あいつ医大の男と、うまくやっているのだろうか)
ふとそう思うと自分が惨めだった。もう二度と博多へは行かないと、心に決めた。だが、心が何度も揺らいだ。
二度とあんな思いはしたくないと思うのだが、行けば会えるのではないかと、今一度史子の体を抱きしめ――その思いが、胸の奥で疼いた。
だが、朝まで待って来なかったという事実は重かった。
あの後、酒を煽り、その後も深酒をしたせいで、胃痛が続いた。医者へ行ったら、十二指腸潰瘍だと言われた。それは仕事のお陰か、いつしか自然治癒した。ただ心の痛手は、消えることはなかった。
弘明は玄関に座り、
スニーカーを履こうとした。
だが紐が縛れない。
手が震えて、指が硬直して、
何度も繰り返した。
それを見かねたのか、背後で父の声がした。
「しっかりせんか。会社が倒産しても、まだ潰れた訳じゃないやろ――」
父の気持ちは知れた。――尋常小学校を出で名古屋に就職したけど,泣きべそ掻いて帰ってきた――と、正月に聞いた祖母の物言いは、いかにも誇らしかった。
地元で警察官になり、警部までになった父は、祖父母にとって自慢の息子だった。それに比べて俺は……と思うと、忌々しかった。
弘明はキーを受け取り、無言で家を後にした。
日が暮れて暗い国道を走る。その一時間が異様に長かった。それでも、やがてコンビナートの光りに照らされた空が現れ、景色が一変する。
子供の頃、潮干狩りに行った海岸は一大コンビナートと化し、かつての伊勢湾の面影は消えた。夜目には美しい空も、煤煙の空を知る者には白々しく、今の弘明には星まで汚れているようにさえ思えた。
(船首船楼の5隻、緒形部長はどないかな。あれが決まったらなあ⋯⋯」
そして富双造船に近づく。だがいつもと違う。
試運転で早出の朝、ジブクレーンは暗闇の中にあった。
だが今は忽然と現れたような、
光の砦の中に、ポツンと立っていた。
(第6章へつづく)




