第4章 ③
(第3話)「下田港の夜」
1977年(昭和52年)3月2日、水曜日。
徳田重蔵は、夜の下田にいた。
清水での南海銀行との面談は、結局、何ひとつ実を結ばなかった。繋ぎ融資は出来ない――その一点だけが、冷え切った応接室に残された結論だった。
徳田は声を荒らげもしたし、過去の取引を持ち出して責めもした。だが、相手の表情は動かない。かつて駅まで出迎えに来た重役の姿は、もうどこにもなかった。
午後、徳田は新幹線で東京へ戻る途中、熱海で降りた。理由はなかった。あるいは、理由を考える気力がなかった。伊豆急行に乗り換え、各駅停車に身を任せる。車窓の向こうに見える海は暗く、水平線はすでに夜に溶けていた。
終点、下田。
若い頃、鮪漁船で何度も立ち寄った港町だった。あの頃、この町は自由の象徴だった。金も、女も、酒も――ここにはすべてがある気がしていた。
だが、今の下田は静かだった。
駅前に人影は少なく、潮の匂いだけが濃く残っている。徳田はロンドン仕立てのコートの襟を立て、タクシーに乗り込んだ。
「丘の上のホテルだ」
運転手は短く「へい」と答え、車を出した。
通り過ぎる街灯が、車内に断続的な光を落とす。その一瞬ごとに、徳田は自分の顔が老いたことを意識した。
(まだだ)
心の中で、そう言い聞かせる。
(まだ、終わっちゃいない)
ホテルの最上階の部屋は、広すぎるほどだった。窓の外には、闇に沈んだ太平洋が広がっている。港の灯が沖に点々と浮かび、波のうねりに合わせて揺れていた。昼間の喧騒が嘘のような、深い静けさだった。
徳田はグラスに酒を注ぎ、窓辺に立つ。冷たい外気が、頬をかすめた。
思い返せば、ここまで来る道は、常に修羅場だった。敗戦直後の混乱、闇市、密輸、遠洋漁業、ベトナム――。正しいかどうかではない。生き残れるかどうか。それだけが基準だった。
負けないためなら、手段は選ばない。
それが、徳田の信念だった。
だが今夜、胸の奥に広がるのは、これまで感じたことのない感覚だった。怒りでも、焦りでもない。
音のない、不安。
それが、静かに居座っている。
徳田はグラスを置き、ベッドに腰を下ろした。
部屋には、潮騒の音だけが届いている。
一定のリズムで、途切れることなく。
時計に目をやる。
針は、ゆっくりと進んでいた。
(まだだ)
そう、もう一度だけ心の中で繰り返す。
徳田は天井を見つめたまま、目を閉じた。
下田の夜は、何事もなかったかのように、静かに更けていった。
――その頃、
ニューヨークでは、まだ夜が始まったばかりだった。
(つづく)
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この物語は、
現場に残された記憶から生まれています。
AMCO・知見Lab
静かに、積み重ねています。
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