第3章「春の嵐の予兆」②
第2話「夕焼けの空を背負って」
久しぶりのマウンドに立ち、弘明がサイドスローで白球を投げている頃、緒形は村田主任と折戸課長を伴い、近鉄特急で名古屋へ向かっていた。
若い選手の掛け声や、金属バットの乾いた音は、彼の耳には届かない。ただ、同じ時間が、別の場所で、別の速度で流れていることだけは、どこかで感じていた。
11月の訪米で、傭船社オーシャンシッピングとの仕様確認は終え、詳細設計もすでにまとまっている。残るは本契約だけだった。
だが、その「だけ」が、今の富双造船には重すぎた。
不思議なことに、社長の徳田も、その息子も同行しない。全権が緒形に委ねられたと言えば聞こえはいい。しかしそれは同時に、成功も失敗も、すべてを背負えという意味でもあった。親子の胸の内は、緒形には読めない。
L/Iの更改で銀行の信用は一応取り付け、年末の繋ぎ融資も受けた。だが経営状況が改善されたわけではない。
船の契約金は、契約、起工、進水、引渡と段階を追って分割で支払われる。割合は船主次第だが、契約時一割、あとは均等というのが一般的だった。
第183番船と184番船を進水させたことで、数億の現金は入っているはずだった。だが従業員は約五百人。月の固定費は一億前後に達し、年末の賞与でさらに数千万円が消える。
数字を並べれば、余裕などどこにもなかった。
3月の年度末まで、もう待ったなしだ。2月中に本契約を結べるかどうか。それが会社の命運を分ける。緒形の訪米は、そういう意味を持っていた。
羽田に着くと、吉田と秘書の中島恭子が見送りに来ていた。
「どうも、休みに、わざわざすみません」
チェックインカウンターへ向かう緒形に、2人が笑顔で駆け寄る。
「いや、ここまでよくまとめてくれた……感謝するよ」
珍しく吉田が神妙な顔で握手を求めた。村田も折戸も、連日の徹夜作業で目が腫れている。それでも顔には、やり切った者特有の静かな充足があった。
「勝負は、向こうへ行ってからです」
緒形はそう答え、恭子の方へ視線を移した。
黒のタートルネックに、深い青緑のオーバーコート。事務所より少しだけくだけた装いだった。
「中島さん、契約が終わったら電話します。よろしくお願いします」
差し出された手を、恭子は一歩前に出て、しっかりと握り返した。
「はい。必ず、お待ちしております」
「じゃあ……行ってきます」
緒形はそれだけ言い、振り返らなかった。
アンカレッジへ向けて羽田を飛び立つと、村田と折戸は後方のエコノミー席でほどなく眠りに落ちた。
緒形はビジネスクラスの窓際で、暮れゆく東京の街を眺めていた。何度も見た不夜城の光景。それでも今夜は、胸の奥に小さな温もりが灯っているのを感じていた。
理由を考えるのはやめ、配膳されたジン・マティーニのグラスに、緒形はそっと口をつけた。
(つづく)
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「AMCO‐知見Lab」“無我夢中”
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