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第1章「満潮の四日市港」①

第1話 「静まり返った船台の朝」

進水準備が一段落し、船底から作業員の姿が消えると、船台の上には妙な静けさが戻ってきた。


弘明は、式台の脇に立ったまま、寒さよりもその静寂の方に身震いを覚えていた。


いつもの進水式なら、今ごろ船台の横の通路には見物人が列をなしているはずだった。近所の保育園児に、社員の家族、取引先の関係者。紅白の幕の下では、紙コップの甘酒や缶ジュースが振る舞われ、子どもの歓声とカメラのシャッター音が入り交じる。


ところが、この朝の通路は、端から端まで誰もいない。あるのは、エンジンを止めたまま並んだハイヤーの列だけだった。


運転手たちはコートの襟を立て、フロントガラス越しに船台の方を退屈そうに眺めている。招待客を乗せるはずの後部座席には、まだ誰の姿もない。


(招待状、出してへんのやろか)

弘明は、吐く息を見つめながら首をかしげた。


入社以来、進水式はこれで五度目になる。だが、来賓のいない式は初めてだ。もちろん、式台の上にはそれなりの顔ぶれが並んでいる。


 船主側とオーナー側の代理店、金融機関の支店長に、保険会社の誰それ。紅白幕の前列には、富双造船の徳田社長と内田副社長が座り、その斜め後ろには設計部長の緒形も控えている。


だが、それだけだ。記念写真を撮りたがる家族も、作業服姿の若い社員を見つけて手を振る子どももいない。


(なんや、祝いやのに、どこか“内輪の集まり”みたいやな)


式台から少し離れたところでは、総務の連中が小さな机を並べ、来賓名簿を手に所在なげに立っていた。紙の束は風にめくれもしない。


弘明は、手袋越しに指をぎゅっと握りしめた。さっきまで自分の進水計算のことでいっぱいだった頭の中に、別のざらついた感触が入り込んでくる。


(マスターの様子がおかしかったんも、何か関係あるんかもしれんな)


プロローグで描かれた一連の号令と作業が、まだ耳の奥にこびりついている。


ほんの一拍、いつもより長く感じた「間」。

わずかに遅れた作業長の応答。


それらを思い出すたびに、胸の奥で小さな違和感が膨らんでいくのだった。


(つづく)

 ↓

【造船所物語|富双造船篇】第1章(全4話)

次回:第2話「造船所が変わり始めた日」



⋯⋯長い長い物語の、始まりです。

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