第1章「満潮の四日市港」①
作者より
この物語は、1970年代に四日市にあった造船所を舞台にした作品です。
実際の造船現場を知る立場から、船を造るという仕事と、
その時代の空気を描いてみました。
進水準備が終わり、船底から作業員の姿が消えた。
その瞬間、巨大な船台は不気味なほど静まり返った。
弘明は、式台の脇に立ったまま、寒さよりもその静寂の方に身震いを覚えていた。
いつもの進水式なら、今ごろ船台の横の通路には見物人が列をなしているはずだった。近所の保育園児に、社員の家族、取引先の関係者。紅白の幕の下では、紙コップの甘酒や缶ジュースが振る舞われ、子どもの歓声とカメラのシャッター音が入り交じる。
ところが、この朝の通路は、端から端まで誰もいない。
あるのは、エンジンを止めたまま並んだハイヤーの列だけだった。
運転手たちはコートの襟を立て、フロントガラス越しに船台の方を退屈そうに眺めている。招待客を乗せるはずの後部座席には、まだ誰の姿もない。
(招待状、出してへんのやろか)
弘明は、吐く息を見つめながら首をかしげた。
入社以来、進水式はこれで五度目になる。だが、来賓のいない式は初めてだ。もちろん、式台の上にはそれなりの顔ぶれが並んでいる。
船主側とオーナー側の代理店、金融機関の支店長に、保険会社の誰それ。紅白幕の前列には、富双造船の徳田社長と内田副社長が座り、その斜め後ろには設計部長の緒形も控えている。
だが、それだけだ。記念写真を撮りたがる家族も、作業服姿の若い社員を見つけて手を振る子どももいない。
(なんや、祝いやのに、どこか“内輪の集まり”みたいやな)
式台から少し離れたところでは、総務の連中が小さな机を並べ、来賓名簿を手に所在なげに立っていた。紙の束は風にめくれもしない。
弘明は、手袋越しに指をぎゅっと握りしめた。さっきまで自分の進水計算のことでいっぱいだった頭の中に、別のざらついた感触が入り込んでくる。
(ドックマスターの様子がおかしかったんも、何か関係あるんかもしれんな)
プロローグで描かれた一連の号令と作業が、まだ耳の奥にこびりついている。
ほんの一拍、いつもより長く感じた「間」。
わずかに遅れた作業長の応答。
それらを思い出すたびに、胸の奥で小さな違和感が膨らんでいくのだった。
(つづく)
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[note|著者ページ]
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[AMCO知見Lab|公式サイト]
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⋯⋯長い長い物語の、始まりです。




