「悲しいお酒になってしまえ」とポローニャは言った
ポローニャ・ド・オホートニチヤ子爵令嬢は友人たちとのお茶会の席で、輝くような笑顔を見せながら、言った。
「明日、タカヤ様が帰って来られますのよ!」
色とりどりのドレスを着た友人たちは、にっこりと、少し羨ましがるような表情を浮かべ、口々に祝福する。
「このたびもタカヤ様、素晴らしいご活躍だったそうですわね!」
「あぁ……。羨ましいわ、ポローニャさん! あんな素敵な婚約者がいらっしゃるなんて!」
目にもかわいらしい茶菓子をつまみながら、ポローニャは声も忘れて笑顔になる。
友人の一人が言った。
「でもまさか……、今回も偽の情報なのではなくって?」
「ふふふ……。ばかね」
ポローニャは失礼ともとれるその友人の言葉を、笑い飛ばした。
「あの時の逆はあり得ませんわよ! ホホホ!」
ポローニャの婚約者、タカヤ・ド・モリャーマは王国に仕える諜報員である。
以前、唐突に、彼が敵地での潜入捜査中に病死したという報せが入り、ポローニャは一晩泣き明かしたのであった。
しかし次の日には彼からの手紙が届いた。生前にしたためた手紙が今さら届いたのかと思い、悲しい気持ちで開封してみると、『明日帰る』と書いてある。
手紙の通り、タカヤは翌日帰国して、ポローニャの熱い抱擁を受けた。
「どうしてあのような嘘を?」と涙に濡れた笑顔で責める彼女に、タカヤはウィンクをしながら答えた。
「敵を騙すためさ。敵を欺くにはまず味方からってね。おかげで仕事がやりやすかったよ」
その言葉の通り、自国に潜入していた敵国の諜報員が、タカヤの家やポローニャの様子を偵察していた。嘆き悲しむ彼らを見て、タカヤの病死を事実と確信し、王に報告した。油断した敵国の王を暗殺するのは容易かったとタカヤは笑う。
タカヤは悪い男だ。少なくとも城や貴族の間では、そういう評判だった。目的のためには手段を選ばない。心を許していない相手にはどんな酷いことでもする。
しかし愛する家族や婚約者に対してはこの上なく誠実で、その美しい東洋の血の混じった顔を愛で満たし、優しく笑う。
他者に対しては冷酷無比、親愛なる者に対しては心からの愛を注ぐ──
そんなギャップが婦人たちにはかえって好印象で、人気の的となっていた。
「私……、転生前は47歳の生保レディーだったのに、こんな幸せにありついちゃっていいのかしら……」
うっとりしながら、つい呟いた自分の言葉にポローニャがはっとする。
友人たちが意味のわからなそうな顔をしてこちらを見ている。
友人の一人が聞いてきた。
「生保って、生命保険のこと?」
この世界は、ポローニャこと蒼井陽子が元いた世界でいえば中世ヨーロッパのようなところであるが、生命保険というものは存在する。
元の世界でも14世紀のイタリアでは現在と同じような仕組みが出来上がっていたので、同じようなものといえた。
「生命保険がどうかしたの?」
「47歳って……。うら若き17歳の貴婦人が何を仰ってるの?」
友人たちの質問攻撃に、ポローニャはホホホと笑って返した。
「わたくし、生命保険のお仕事でも始めてみようかしら! そんなことを思っただけですのよ。オホホホホ!」
◇
次の日、婚約者が国外から帰って来た。
国王にまず謁見し、城から出て来る彼を、ポローニャは待ちわびた。
二週間も会っていなかったので愛しさは積りに積もっていた。
はしたなくてもいい、顔が見えたら駆け寄って、その胸に思いきり飛び込もうと決めていた。
城門が開いた。
タカヤの姿が現れた。スラリとした長身に黒い騎兵服を着こなし、美しい黒髪の巻き毛が風に揺れるのが見えた。
「タカヤ様!」
思わず城門を潜って飛びつこうとするポローニャを番兵が止めた。
タカヤはこちらを見なかった。
隣に並んで歩く、プラチナ・ブロンドの美女をエスコートし、その女の顔ばかりを見ている。
「だ……誰? その女……」
ポローニャの胸に、黒い炎のようなものが湧き上がってきた。
◇
タカヤはポローニャの家に顔を見せに訪れもしなかった。
父は激怒し、母は悲嘆に暮れた。しかし爵位が上のモリャーマ家に苦情を言うこともできず、ただ黙ってこの屈辱に耐えていた。ポローニャは自室に籠もり、ただ泣いて過ごした。
城の舞踏会の日、ポローニャは気乗りがしなかった。タカヤもそこに来ていることだろう、あのプラチナ・ブロンドの女を連れて──
「行って、どういうことなのか、はっきりさせて来い!」
「きっと何かの間違いなのよ。タカヤ様はおまえの婚約者なのだもの」
両親に背中を押され、重い足取りに白いハイヒールを履いて、ポローニャは舞踏会に参加していった。
タカヤはやはりそこにいた。
あのプラチナ・ブロンドの女を連れて、彼の友人たちと談笑している。
そこへポローニャの友人たちが近づき、まくしたてた。
「ちょっと! タカヤ様! これはどういうことですの!?」
「その女は誰?」
タカヤは紳士的に笑顔で挨拶をすると、紹介した。
「こちらはエリカ・ブロンディーアさん。任務先で知り合った女性です。私は彼女と結婚の約束を交わしています」
「ええっ!?」
「タカヤ様! それは酷くありませんこと!?」
「ポローニャさんとのことはどうなさるおつもりなの!?」
「……あっ! 噂をすればポローニャさんだわ!」
みんなの視線が自分に集まり、ポローニャの足は逃げ出しそうになった。
しかし、聞かなければ──はっきりさせなければ。自分とのことはどうするつもりなのか──その思いが彼女をそこにとどまらせた。
「ポローニャ・ド・オホートニチヤ子爵令嬢……」
タカヤが冷たい目で彼女を見、抑えた声で言い渡した。
「おまえとの婚約を破棄する」
「どうして……。どうしてですの……?」
もう枯れ果てたと思っていた涙が、またこぼれ出した。
「私が……私に何かいたらないところがあったのなら……直しますから。どうか……」
「すまない、ポローニャ」
しかしタカヤはあくまで申し訳なさそうに言う。
「俺はこのひとを愛してしまった。……二人の女性を同時に愛することはできないのだ」
「なぜ……謝るんですの?」
ポローニャは泣き崩れそうな足をわなわな震わせて、立っていた。
「そんなむごいことを仰るなら……いっそ『死ね』と仰って!」
するとタカヤの態度が急変した。
悪魔のような笑いを浮かべると、ポローニャを足蹴にする勢いで罵りはじめた。
「ハハハ! 俺に愛されていると本気で思っていたのか? この愚かなクズ女め! おまえみたいな冴えない黒髪のブスより、エリカ嬢のようなプラチナ・ブロンドの美女のほうが男なら誰でも好きに決まってるだろーが! ギャハハハッ! 俺は彼女の美しさのほうを選ぶことにしたんだよ!」
友人たちが、守るようにポローニャの身体を支え、彼女に囁いた。
「……最低」
「こんなひとだったのね」
「ポローニャさん、目が覚めたでしょう? あんな男、あの見た目だけのキラキラ女にくれてやりなさいな」
ポローニャは悲しみで頭が混乱していた。
あのひとはあんな人間じゃない──そう思いながらも、頭の片方では、じつは彼はほんとうはあんな低劣な人間で、自分はずっと騙されていたのかもしれない、あの優しい笑顔は、本性を隠すための仮面だったのかもしれない──そんなことを考えていた。
◇
舞踏会からの帰り、ポローニャが泣き続けていると、ふいに馬車が停まった。
御者と会話する老婆の声が聞こえる。
「ひっひっひ……。葡萄酒はいらんかえ?」
「いらん! 邪魔だ、そこを退かんか」
「あんたには必要なくても、中のお嬢さんには必要だと思うんだがね」
「無礼者! 退かんと轢いて通るぞ」
何事かとポローニャが窓から顔を出すと、赤い月の下に、黒いローブに身を包んだ醜い老婆が馬車を塞ぐように立っており、こちらに気づくとニヤニヤと笑いながら頭を下げた。
「おばあさん、危ないわよ。葡萄酒なんか要らないからそこを退いて」
ポローニャが言うと、老婆は窓に近づいてきて、小声でこう言った。
「あたしは魔法使いさ。お嬢さん……あんた、今、殺したいほど憎い相手がおりなさるだろう?」
「殺したいだなんて……」
ポローニャはうろたえた。
「そこまでは……! 確かに憎らしい方はいらっしゃいますけど……」
「この葡萄酒はね、飲んだ相手を殺すことができる魔法の酒なのさ」
白い陶器の瓶を見せながら、老婆がそそのかす。
「しかも毒とは違って、呪いの魔法のかかった酒だから証拠も残らないよ。何より、これを飲んで死んだ相手は確実に地獄に落ちる」
「じ……、地獄?」
「そうさ。地獄で永遠の苦しみを味わうんだ」
老婆の醜い顔が、笑顔で歪む。
「あんたを悲しませたことを後悔しながら、苦しみながら、永遠の命を生きるんだ。……あんた、これを飲ませたい相手がおりなさるだろう?」
「……なぜ、私に? 私の身に起きたことをご存知でいらっしゃるの?」
「あたしはね、悲しみの匂いには敏感なのさ」
老婆はポローニャに白い陶器の瓶を押しつけた。
「お代はいらないよ。あんたを悲しい目にあわせた相手に思い知らせておやり」
ポローニャは瓶を受け取った。
うろたえた手つきでそれを軽く振ってみる。中で少量の液体が揺れる感覚があった。
彼女は無言で唇を噛んだ。
「……あっ、そうそう。そうだ。大切なことを教えるのを忘れるところだったよ」
そう言いながら老婆が振り返る。
「飲ませる相手は一人でなければいけないよ。二人以上に飲ませたら魔法の効力が分散して、消えてなくなっちまう。さぁ、あんたは誰を殺したい?」
決まっている──と、ポローニャは思った。
一番苦しめてやりたいのはあのひとだ! 私を裏切った、あのひとだ! ただしあっさりと殺してなどやるものか!
自分からは見えない地獄なんかで苦しませてやるものか!
あのプラチナ・ブロンドの女──エリカ・ブロンディーアにこれを飲ませ、地獄で苦しませ、あのひとには私の目の前で、悲しみに沈むその姿を見せてもらう!
あっさりと殺してなどやるものか!
死ぬよりも辛い目にあわせてやる!
◇
タカヤとエリカの結婚式の日取りが決まった。
当然のようにポローニャに招待状は届かなかった。
ポローニャは白い陶器の瓶を窓辺に置き、それを眺めて過ごした。
飲ませる気は盛り上がっていた。
これにほんとうにそんな呪いの魔力があるのかもわからないが、何が何でも飲ませてやりたい気持ちになっていた。しかし飲ませる機会が訪れない──
結婚式に乱入してやろうかとも思ったが、罵声を浴びせながら葡萄酒を差し出したって、とても飲ませられるとは思えない──
盛り上がっていた殺意が、だんだんと今度はしぼんでいく──
(あのひと……エリカさん……。美人だし、とてもお優しそうだった……)
瓶を見つめながら、ポローニャは思った。
(タカヤ様にはあのひとのほうがお似合いなのかもしれない……。ご身分は存じないけど、きっと高貴な家柄のお方だわ……)
窓外の雨に目を移すと、ポローニャは決意した。
(やめておこう……。じぶんの憎しみのために他人を不幸にするだなんて──悲しみが私を中心に蔓延してしまうだけだわ。私さえ我慢すれば、皆が幸せに生きられるのだから──)
◇
友人たちがポローニャを慰めるためのお茶会を開いてくれた。
晩春の陽気の降り注ぐ街のオープンカフェで、白いテーブルを囲んで、フィナンシェやマドレーヌをつまみながら──しかし話題となるのは麗らかな空気にはそぐわない、悪口ばかりだった。
「あのエリカって女、娼館にいたらしいわよ」
「下賤な家柄の娘で、見た目がキラキラしてるだけで、中身は空っぽなんですって」
「無教養で言葉遣いも野蛮で──どうしてタカヤ様があんなのをお選びになったのか、さっぱり理解ができませんわ」
友人たちの悪口を聞きながら、ポローニャは何も発言せず、ただ友人たちの気遣いに感謝し、ニコニコと笑顔を見せていた。
「──あっ!」
友人の一人がポローニャの後ろのほうを見て、そんな声をあげた。
何事かと振り返ると、そこにプラチナ・ブロンドの美女が、豪華なドレスに身を包んで立っていた。腕組みをし、眉を吊り上げて笑っていた。
「……エリカ・ブロンディーアさん!」
ポローニャがその名を呼んだ。
「立たなくていいわ」
エリカはそう言うと、高いところからポローニャを見下ろす。
「あんた……タカヤの前の恋人なんだってね」
「婚約者よ!」
友人たちが憎む目をエリカに向ける。
「この泥棒猫!」
ポローニャは言われた通りにせずに立ち上がると、礼儀正しくエリカに挨拶をした。
「エリカ・ブロンディーアさま……。お話するのは初めてでしたわね。私……」
「聞いてたのよ、今の話。よくもあたしの悪口で盛り上がってくれたわね」
エリカはふんぞり返ってポローニャを睨みつけると、あざけるような笑いをその美しい顔に浮かべる。
「でも……まぁ、負け犬の遠吠えにしか聞こえないけどね」
「まぁ!」
友人たちも立ち上がった。
「無礼な!」
「ポローニャさんは子爵令嬢ですのよ!」
「この……下賤の者が!」
「あたしはタカヤと結婚したら、侯爵令嬢となるのよ?」
エリカが勝ち誇ったように笑う。
「タカヤが言ってたわ。ポローニャからは中年女みたいな匂いがするって。臭いんだって」
そう言って、ポローニャの肩の匂いをスンスンと嗅いだ。
「ほんとう! あなた、臭いわね! それ、もしかして加齢臭? あははっ! その臭さじゃ婚約破棄されて当然よ!」
ポローニャは自分の匂いを確かめてみることもしなかった。
現代知識を駆使して作らせた石鹸で毎日体を洗い、シャンプーもコンディショナーもこの時代にはないものを使っている。むしろ香りには自信があった。
何より今、自分は元の世界の47歳ではない。17歳のうら若き乙女なのだ。ミルク臭いと言われるのならまだわかるが、加齢臭などあるはずもなかった。
作り話だ。他人とは違う芳しい香りをポローニャが放っていることに気がついて、エリカはそれを加齢臭に置き換えて攻撃対象にしているのだ。タカヤがそんなことを言うわけがないと思った。
「どんなにあたしの悪口を言ったって無駄なんですからね」
エリカは横を向くと、夢見るように語り出した。
「あたしはタカヤと結婚する。あの、美しい黒髪の紳士さまと! そしてあたしは侯爵令嬢になるのよ! 平民出身のあたしが……! あぁ……、なんて幸せ! 美しいって罪ね!」
怖い顔をして黙っているポローニャのほうを振り向くと、あかるい笑顔で言う。
「あなたは死になさいよ。不幸のどん底でしょ? 死んだほうが楽よ? 今から森の中へでも行って、首吊って死んじゃえ。あははっ!」
それではごきげんよう、と貴族令嬢の真似をして去っていくエリカ──
「なんて下品な女!」
「ポローニャさん、気にすることないわよ!」
前に出てかばってくれる友人たちの後ろで、ポローニャは何も言わずにただわなわなと震えていた。
◇
お茶会の帰り、人混みの中を一人で歩いていると、前からタカヤがやって来るのが見えた。
背の高くないポローニャは人混みに隠れ、長身のタカヤは人混みの上に顔が突き出ている。
このまま気づかれずにすれ違ってもよかった。
「タカヤ・ド・モリャーマさま」
前を塞ぐように立ち止まると、落ち着いた声でポローニャが話しかけた。
「ポローニャ……!」
目を見開いてタカヤも立ち止まる。
「結婚式に……私を招待してくれませんこと?」
疲れたような、しかしあくまで落ち着いた微笑みを浮かべて、ポローニャは言った。
「この気持ちにはっきりとした区切りをつけたいんですの。モヤモヤと終わるのは嫌……」
「ポローニャ……」
タカヤは申し訳なさそうな顔を一瞬したが、すぐに意地悪な笑いをそこに浮かべた。
「なるほど……。はっきりさせたいんだな? いいだろう。俺もじつはおまえを結婚式に招待してやりたくて仕方がなかった。その目で事実をはっきりと見て、俺に愛想を尽かすがいい」
◇
結婚式当日、ポローニャは真っ青なドレスに身を包み、出掛けていった。
手には白い陶器の瓶を抱えていた。
彼女が式場に入って来たのを見ると、参列者たちは好奇の目を向けた。
「婚約を破棄されたひとが来ていますわ」
「おかわいそうに。頭がおかしくなってしまったのかしら?」
しかしポローニャは気丈に胸を張り、参列者の席に着いた。
料理が運ばれて来た。
グラスに赤い葡萄酒が注がれる。
ポローニャは一気にそれを飲み干した。
新しく葡萄酒を注ぎに来た給仕にグラスを手で押さえ、下がらせる。
「私、あまりお酒は飲めませんの」
周りには気心の知れた人間もいくらかいた。
タカヤの友人たちが同情の目をしばらく向けていたが、やがて気遣うようにあっちを向いた。
ポローニャは白い陶器の瓶の蓋を開けると、中身をグラスに注いだ。
薔薇のように赤い液体が流れ出し、グラスを半分ほど満たす。
それを手で揺らし、赤い液体が鮮やかに光を纏うのを、冷たいまなざしで眺めた。
「新郎新婦の入場です」
進行役の紳士の言葉に誘われ、タカヤが会場に姿を現した。
真っ白なタキシードの上に、黒髪の精悍な顔が煌めいていた。その腕には純白のウェディング・ドレスを着た新婦のエリカが腕を絡ませている。
エリカはとても幸せそうだった。
人生の勝者のような笑みを浮かべ、タカヤに花のように抱かれている。
あの日、ポローニャに暴言を吐いた人物とは思えないほど、ただひたすらに美しかった。
タカヤも幸せそうに笑っていた。
別人のような笑顔で、あかるく笑っていた。それはポローニャの前でいつも見せていた優しい笑顔と違って、逞しい、仕事の出来る者の社交的な笑顔だった。
神父が二人に愛を誓わせ、キスをさせる。
そっちのほうは頑なに見ずに、ポローニャはグラスの中の液体を見つめ、それをユラユラと揺らしていた。
「おめでとう!」
「結婚、おめでとう!」
「お二人の未来に幸あらんことを!」
式が一段落終わると、参列者が二人の前へ行き、祝いの言葉をかける。葡萄酒を持って訪れる者もあり、勧められると二人はそれを口にした。
幸福そうな笑顔で、二人が一段高い席に並び、次々と差し出される楽しい酒を飲んでいる。
それを睨むように見ながら、ポローニャは呟くように、小声で言った。
「悲しいお酒になってしまえ」
その声は喧噪の中、誰にも聞こえはしなかった。
ポローニャは立ち上がった。
やって来たポローニャを見て、エリカがそっぽを向く。『このひと、なんでここにいるの?』という表情だ。
タカヤは別人のような笑顔のまま、ポローニャを見つめた。仮面の貼りついたような顔で、黙って話しかけられるのを待っている。その目には愛情の欠片ももう感じ取れなかった。
「ご結婚、おめでとうございます」
ポローニャも仮面をつけたような笑顔を浮かべると、言った。
「私から祝福のお酒をプレゼントいたしますわ。どうぞお飲みになって」
そう言って、タカヤの前に、グラスを差し出した。
見せつけるようにエリカがタカヤに寄りかかった。
きっとエリカは自分の酒など飲まないだろうと思っていた。それで計画を変更したのだった。しかし、今なら調子に乗っている。その優越感を利用して、飲ませてやれるかもしれないという気がした。
しかしそれでもポローニャはグラスをエリカのほうへ動かさなかった。
この女の勝ち誇ったような、幸福そうな顔が、一転、悲しみに染まるのが見たかった。
タカヤには地獄で永遠に苦しんでもらう。生かしておいてはいずれ彼の悲しみは消え、新しい希望を見出してしまうことだろう。
見えなくとも、彼が地獄で苦しんでいることを想像するだけで、ポローニャは安心できる気がしていた。
「ありがとう」
タカヤは冷笑を浮かべてグラスを受け取った。
「俺のことなど忘れて、早く新しい恋人でも作るんだな」
タカヤの喉を赤い液体が通っていくのを、ポローニャは冷たい気持ちで見送っていた。
◇
結婚式も終わりに近づいた。
タカヤの様子は何も変わらず、高い席の上で社交的な笑顔を浮かべ、エリカと並んで座っている。
騙されたのだろうか、あの老婆に──
あれはただの葡萄酒で、呪いの魔法などかかってはいなかったのだろうか──
そう考えると、悔し涙がポローニャの目からこぼれた。
自分がタカヤを殺さなかったことに安堵するなどという気持ちは少しも湧き起こらなかった。ただ悔しくて、自分がバカみたいで、なぜ自分はここにいるのだろうと考えると涙が止まらなくなった。
「ポローニャ様……」
小声で横から声をかけてくる者があった。
見るとタカヤの従者が膝をつき、心配そうな顔で、自分を見上げている。
涙を拭いて、何の用かと目で問うポローニャに、従者は声を潜めて言った。
「もう……私には見ていられません。タカヤ様からは口止めされていたのですが……、この結婚式は偽物なのです」
目を見開き、無言で続きを促すポローニャに、従者はさらに声を潜めて言った。
「あのエリカという女は、タカヤ様の標的です。法では裁けぬ罪人なので、タカヤ様に殺害指令が下っていたのです」
「ど……、どういうこと?」
「それがあの女、タカヤ様に恋をしてしまいまして……。それならばと、タカヤ様はそれを利用することにしたのです」
「利用……?」
「タカヤ様はあの女に高額の生命保険をかけております。その上で事故に見せかけて殺害し、保険金を貴女にプレゼントするつもりなのでございます」
「なんですって!?」
「それを貴女がお喜びになるかどうかはともかくとして……。タカヤ様は変わらずポローニャ様だけを愛しておられます。『敵を欺くにはまず味方から』──そういうことでございますので……どうか、タカヤ様を信じて、泣くのをおやめください」
急いでポローニャはタカヤのほうを見た。
一段高い席で、タカヤが口から大量の血を吐くのが見えた。
その横でエリカが悲鳴をあげた。
「タカヤ様!」
ポローニャは立ち上がり、走った。
駆け寄った時にはもうタカヤは息絶えており、白目を剥いて動かなくなっていた。
エリカが泣き叫ぶ。
「タカヤ様! タカヤ様!? ひいぃっ!」
ポローニャも後悔に喉が裂けるほど泣き叫んだ。
「タカヤ様! あぁ……、タカヤ様!」
「ヒヒヒ……」
ベランダの窓に隠れ、黒いローブに身を包んだ老婆がそれを見ていた。
「婚約者の仕事を知りながら、信じてやれなかったあんたの自業自得だよ、お嬢ちゃん」
香気を手繰り寄せるように手を動かすと、清々しい表情を浮かべた。
「こいつは上物だね。しかも二人ぶん。……他人の悲しみを吸うことで永遠に生き長らえるあたしのこと、魔女と言いたければ言うがいい」
そして夜の闇に姿をゆっくりと消しながら、最後の言葉を呟いた。
「人が人に復讐し、それで誰かが悲しむことがある限り、あたしは永遠に生き続けるのさ。ヒッヒッヒ……」