第九話 夏休み ——入日凪人
翌日の昼下がり、凪人は図書館の前に来ていた。メッセージでの話し合いの結果、今日は図書館で一緒に夏休み課題をしようということになったのだ。図書館の外観を見た途端、凪人は言葉にできない切なさを覚える。この場所を訪れるのは中学以来だった。昔、特に小学生のころは琴葉とここに来て本を探したり、文章の書き方や物語の作り方についての情報を集めたりしていたのだが、中学入学以降はそんな機会も少なくなり、ここ数年は全く来なくなっていた。
館内に入った途端、外の生ぬるい空気はエアコンによるひんやりとしたものに切り替わる。吹き抜けで天井は高く、広々としたエントランスにはいくつかの木製の机と椅子が設置されていて、その中に琴葉の姿を見つけた。近づく凪人に気づいた琴葉は読んでいた文庫本を机に置き、控えめに手を振る。
「おはよう」
凪人がそう言ったあと、「って時間でもないか」と訂正すると、琴葉はくすりと笑って「もうお昼だもんね」と言う。
「懐かしいな。図書館なんて、いつぶりだろう」
凪人が言うと、琴葉は「そうなんだ。私はたまに来るんだ、ここ」と返す。
「あ、それ」
凪人は琴葉の手元にある文庫本をみて呟く。それは昔、二人で読んだ記憶のあるものだった。小学生のいつだったか、この本を琴葉に勧められたことをきっかけに、小説に興味を持つようになったのだ。
「うん。家にあるの見つけて何だか懐かしくなっちゃって」
琴葉はそういって表紙を凪人にみせる。
「今読んでも面白い?」
「なかなか」
「そうなんだ。俺もあとで読んでみよっかな」
凪人そう言いつつも椅子に座り、背負ってきたリュックサックから筆記用具と数学の課題プリントを取り出す。
「お、真面目だねえ」
様子をみていた琴葉はいたずらっぽく笑う。
「早めに終わらせようと思って。まだあんまり決まってないけど受験の勉強だってしないとだし」
そう凪人が返すと、琴葉は「私もそうしよ」と言って課題を取り出すのだった。
課題にも一段落ついたとき、琴葉をみると何やらノートを広げて真剣な顔をしていた。
「何してるの?」
凪人が訊くと、琴葉はノートを見つめたまま話す。
「ん、プロットだよ。小説の」
「みてみて」
琴葉は凪人の方を向いて言うと、ノートを机上で滑らせ、凪人の前に差し出した。凪人はノートに記されているものをじっくりと読む。そこには、テーマや世界観、細かな人物設定、物語の流れから台詞回しまで、物語を書くにあたっておおよその必要な内容が事細かに記されていた。
「冒険譚?」
「うん。主人公は冒険家に憧れる女の子。王国の姫として生まれてしまったせいでお城から出られないでいるところから物語は始まるの——」
琴葉はそれから、物語の運びや設定について簡単に説明した。自分の考えた物語について語る琴葉の口調はいつも以上に軽やかで、その瞳もいつになく輝いて見えた。
どうやらこれは、冒険家に憧れながらも城に幽閉されている王家の女の子が、同じく冒険家に憧れる庶民の男の子との偶然の出会いから城を抜け出し、共に旅へ出る、という物語のようだった。旅の途中での出来事や、出会いや別れを経て主人公が成長する様子を描く、いわゆるロードムービーだ。
「どうかな?」
唐突に感想を訊かれ、凪人は考えこむ。
「ダメならダメって言ってくれて良いから。正直にお願い」
琴葉に追い打ちをかけらるように言われ、ついに凪人は口を開く。
「……良い。かなり良いと思う」
「ほんとに?」
「うん。俺が言えたことじゃないけど。設定もしっかりしてるし、話自体もすごく面白いよ。何ていうか、ここまで面白さが伝わってくる資料って、中々あるもんじゃないよ」
「言いすぎじゃない?」
「ほんとだって」
これは本当に、正直な感想だった。琴葉の書いた設定資料は本当に考えこまれており、プロットひとつとっても各場面での景色や主人公の心情、伝えたいことなどが理解できるものになっていた。実のところ、凪人は創作の過程でここまで細かな設定を文字に起こした経験がなかった。設定が堅牢なものでなければ物語は上手く展開されず、時に矛盾まで生じてきてしまう。凪人は、それが原因で筆を折ることが幾度となくあった。物語を滞りなく進行させられるほどの設定資料をつくり上げる技術などというものは一朝一夕で身につくものではない。今までの経験から、凪人はそのことを十分に理解していた。琴葉はここに至るまで、一体どれほどの努力を積み重ねてきたのだろう。そして自分は今まで、どれほどの間、その努力を怠ってきたのだろう。それを思うと、凪人はどうにも途方もない気持ちになる。
「そこまで言われるとなんか騙されてる気がするなあ」
琴葉はそう言いつつも満足げな顔で「ありがと。凄くうれしい」と付け足すのだった。
「まぁでも、結末は決まってないんだけどね」
琴葉は表情を戻して言った。確かに、琴葉の言う通りプロットは最終話直前で途切れている。最後に書かれていたのは、旅を続ける女の子の元に、父親である国王が危篤であるという凶報が舞い込むという場面だった。
「いくつか案はあるんだけど、どれにするか決まってないんだよね」
そう琴葉は続けた。凪人は聞いて良いか迷いつつも、物語の核心に迫る質問をすることにする。
「どんなの?」
琴葉はスマートフォンを取り出し、メモアプリを眺めながら答える。
「えっと、何個かあるんだけどね。ひとつ目は国に帰って父親を看取るって終わり方。国に帰ってしまえば父を看取ることは出来るけど、王家には他に跡目がいないから、また旅に出られる可能性はかなり低いの。だからこの案だと、主人公は王女として国に残ることになるんだ。でね、ふたつめは——」
琴葉はそれから物語の結末に関する案を、いくつか挙げていった。憧れていた旅を諦め国に帰る終わり方や、帰路につくも父の最期には間に合わず決断に時間をかけたことを後悔するといったもの、父親の危篤を知りながらも旅を続けることを決意するといったものなど、様々なものがあった。
「凪人くんはどれが良いと思う?」
琴葉の問いかけに、凪人は少し困る。琴葉の考えた物語の結末は、どれもハッピーエンドとは言えない複雑なものだった。この物語の主題に合った結末を選ぶとしても、テーマが主人公の成長にあるのだとすれば、どの案でも本筋からは外れていないように思えた。国へ帰るという決断にも、旅を続けるという決断にも、主人公の成長を感じ取ることは可能だと考えたからだ。
「うーん、どれも良いと思うけど——」
その時、机に置かれていた琴葉のスマートフォンが小刻みに震えた。何かの連絡だろうか、内容を確認する琴葉の顔は、段々と真剣なものになる。
「ごめん。ちょっと出てくる」
琴葉はそう言って席を立つ。
「待って」
去ろうとする琴葉を咄嗟に引き留めた凪人だったが、続ける言葉が思い浮かばない。そうこうしているうちに琴葉が焦ったように口を開く。
「急でごめん。でも行かないとだから——」
「またあの黒いやつ?」
琴葉を遮るように凪人が言うと、琴葉は一呼吸おいて頷く。
「俺も行く」
凪人が言うと、琴葉は少し困ったような顔を見せる。
「だめ。危ないから——」
「それは琴葉も同じだよ。だから、本当のこと言うと行ってほしくもないんだけど、琴葉じゃないと出来ないことなんだよね」
琴葉は黙って頷く。
「それなら俺にも手伝わせて」
「そろそろのはずなんだけど」
凪人の隣で、琴葉が地図アプリを確かめながら言う。二人は図書館を出てしばらく歩き、商店街の近くまで来ていた。説得の結果、琴葉は迷いながらも、無理をしないという条件の下で凪人の同行を認めたのだ。
「今回のはどういうやつかわかってるの?」
「ん、どういうこと?」
凪人の質問に、琴葉が訊き返す。
「え、ああ。なんか大人しいのとか暴れるやつとか。色々いるじゃん」
琴葉は凪人の言っている意味をようやく理解したようで、「今のところは大丈夫みたい」と言ったすぐあとに「でも急がないとまずいかも」と付け足すのだった。
「いたいた」
商店街の入り口前の交差点まで来たとき、琴葉がそういった。見ると、横断歩道の中央に、あの化け物が突っ立っている。琴葉の言っていた通り、暴れたりはしていないようだった。
ここは確か——凪人がそう思い、道の脇をみると花束と缶コーヒーが供えられている。そう、ここは数年前に交通事故があったと聞いたことがある交差点だった。事故で亡くなったのは五十代の女性だったはずだ。
歩行者用信号機が青になるのを待ち、琴葉は化け物の方に歩みを進める。化け物の腹部に掌を当て「ついてきて」と優しく言うと、化け物は言われた通り琴葉の背中を追い始めた。
一行は商店街に入る。光源といえば黄ばんだアーケード越しの日光くらいで、薄暗い商店街はぼんやりとした黄色っぽい光に包まれている。いくつものシャッターが軒を連ねていて、営業中の店といえば個人経営の婦人服店や仏具店など、凪人たち高校生には縁遠い店ばかりだった。まるで、ここだけ時が緩やかに進んでいるようだと凪人は思う。
「どうするの?」
凪人が訊くと、琴葉は「まあ見てて」とだけ言って控えめに笑い、そのまま歩き続けた。
「ここだよ」
琴葉がそう言ったのは、大衆食堂の前まで来たときだった。店先の窓から様子を窺ってみる。蛍光灯の無機質な光に照らされた薄暗い店内には四人掛けの古びたテーブルがいくつか並べられている。天井では扇風機が首を振っていて、角に設置された小さなテレビには野球の中継が映し出されている。何だかどこかで見たような、懐かしい雰囲気の漂う店の奥に、ひとりの男性の姿を認めることが出来た。年齢は還暦くらいだろうか、白髪頭の男性は、ひとりカウンターの向こうで食器を洗っている。
「ほら、あの人でしょ」
琴葉が化け物に語り掛ける。化け物は店の奥にいる男性を、ただ見つめ続けていた。
「今日はごめんね。付き合わせちゃって」
帰り道、琴葉が言った。あれからしばらくの間、化け物は店主の様子を見つめ続け、例によってゆっくりと消えていったのだった。すべてが終わったころには既に日も暮れかけていたため、今日はこのくらいにして帰ろうということになったのだ。
「いやいや、俺が勝手についてっただけだから」
凪人がそう返す。琴葉は俯き黙ったまま、首を横に小さく振る。夕焼け色に染まった遠くの空を見つめながら、凪人はさらに続ける。
「それに割と楽しかったよ、今日も」
琴葉はハッとしたような顔で、凪人の方を見る。
「だから、もし暇だったらなんだけど、明日も会えないかな、なんて」
勢いでそこまで言った凪人だったが、琴葉からの返答はなかなか来なかった。
「……うん。ありがと」
凪人がどうしてか恥ずかしくなりかけた時、琴葉が小さな声でそう言った。
「また明日、ね」
はにかんで笑う琴葉に、凪人は少しだけ、ほっとするのだった。
——それからは夏休みのほとんどの時間を、凪人は琴葉と共に過ごした。凪人も琴葉に倣い小説を書くための準備を始めた。
昼過ぎから図書館に集まって課題や勉強をし、時には互いの小説について相談し合いながら過ごす日々の中で、一日に何度か化け物に対応しなければならないこともあったが、そのたびに二人は協力して対処することが出来た。初めの方は凪人の同行を拒んでいた琴葉も、次第に何も言わず認めるようになっていった。
凪人は支度を終えると、いつものように家を出て図書館へ向かう。行く道の向こう、青空に浮かんだ入道雲は太陽に照らされ、その巨大さと純白さを際立たせている。それだけでなく、凪人には視界に映る街全体が、以前よりも輝いて見える。
悩みを打ち明けたり、自分のことを分かってくれる人がこの世に一人いる。たったそれだけのことで目の前の景色はこんなにも鮮やかになるのだ。彼女さえいれば、この先にどんなことがあっても、きっと大丈夫だ。根拠もないままに凪人はそう思い、今日も軽快に歩を進めるのだった。




