第六話 花火大会 ──入日凪人
終業式から花火大会までの二日間を、凪人は高揚と心配の中で過ごした。前者はもちろん琴葉と行く花火大会に向けたもので、後者は自分の将来や、琴葉に対してのものだった。琴葉はいま、どこで何をしているのだろう。もしかしたら今も、あの化け物といるかもしれないのだ。何度か連絡を取り合ったが、内容は花火大会での計画を練るためのもので、化け物や琴葉の家のことについて触れることは出来なかった。
花火大会当日、凪人は洗面所の鏡で身だしなみを入念に確かめると自宅を出た。琴葉との待ち合わせ場所は自宅近くの公園。数日前に化け物を追ってたどり着いた、あの公園だ。予定から考えると自宅を出るのはもう少し後でも良かったのだが、どうにも気持ちが落ち着かず、とうとう早くに家を飛び出してしまったのだ。街はいつになく賑やかで、空にはすでに号砲花火の爆発音が響き渡っており、その音が凪人の気を一層はやらせた。
琴葉はもう着いているだろうか、どんな服で来るのだろう、ひょっとして浴衣だったりするのだろうか。いや、あまり期待しすぎるのはよくないはずだ。でも、もし浴衣だとしたら、どんな反応をすればよいのだろうか。凪人は今日起こるであろう出来事や、交わされるであろう会話をひたすら想像しながら歩いた。
予定よりも十五分ほど早く待ち合わせの公園についた凪人は、まだ来ていないだろうと思いつつも周囲を見渡す。ベンチに人が座っているのを見つけ、心が小さく跳ねるのを感じる。浴衣を着た琴葉の姿が、そこにはあった。
琴葉は俯いたまま、こちらに気づかない。
「ごめん。待った?」
凪人が近づき声をかけると、琴葉はようやく顔を上げて微笑み、「ううん、いま来たとこ」と言うと立ち上がった。
「どうかな? これ」
琴葉は来ている浴衣を強調するように袖を振る。その素振りに、凪人の鼓動が更に高鳴る。
「……うん。いや、似合ってると、思うよ」
凪人は高揚を抑えつつ、やっとの思いで言葉を絞り出す。
「良かった」
琴葉は少しだけ俯き、はにかんで笑うのだった。
「花火って何時からだっけ?」
「えっとね、七時半からだったと思うよ」
琴葉が答える。二人は会場に向かっている最中だった。花火が打ちあがる前に、露店を存分に楽しんでおこうということになったのだ。花火大会は本当に久しぶりだということや、夏休みの課題のことなど、他愛もない話をしながら歩く。道を歩く人の数は会場に近づくにつれ徐々に増えていった。
「す、すごい人だね」
琴葉が呟く。会場につくと、そこには気が滅入るくらいの雑踏があった。道の両脇には露店が所狭しと並んでおり、その間を行き交う人々の群れは、大雨の後の濁流のように思えた。
二人は覚悟を決めると人混みの中へ入っていく。
「何食べたい?」
琴葉に訊かれる。
「焼きそばとか、牛串とかかなー」
凪人が答えると「定番だねえ」と琴葉。
「そっちは?」
「うーん、色々あるけど、一番は綿あめかな」
今度は凪人が訊き返し、琴葉が答える。凪人が「って、そっちも定番じゃん」と言い返すと、琴葉は「まあね」と言って笑う。
「昔から好きだよね」
「え、何が?」
凪人の言葉に、琴葉はきょとんとしている。
「何って、綿あめ。小学生の頃も探してたよね」
「え、覚えててくれたんだ」
琴葉はそう言うと、どこか照れくさそうに笑う。
「みてみて!私、あれやりたい」
琴葉の声に凪人がみると、射的屋があった。紅白の縞模様をした台の上には駄菓子からぬいぐるみ、ラジコンまでいろいろな景品が並んでいる。
「ほら、昔もやったでしょ?」
琴葉に言われ、思い出す。小学生に頃の花火大会でも射的に挑戦したことがあった。確か結果は失敗。琴葉はぬいぐるみを、凪人はモンスタートラックのラジコンを狙ったのだったが二人とも景品を倒すことはおろか、ほとんどの弾を当てることすら出来なかったのだ。
「じゃあ、リベンジだね」
凪人が言うと、琴葉は「だね」と相槌を打つ。
「なに狙う?」
射的屋の列に並んでいるとき、凪人が琴葉に訊く。
「テディかなあ」
琴葉の指す方を見ると、洋服を着た小さなクマのぬいぐるみが座っていた。
「凪人くんは?」
「熊かな」
凪人の返答に琴葉は少し驚いた様子だった。
「ラジコンなんてとってもどうせ遊ばないし。それならぬいぐるみが良いかなって」
そう凪人は付け加え、もう一度景品のぬいぐるみをみて言う。
「でもあれ、ぬいぐるみを撃つってことだよね」
景品そのものを撃って倒せば手に入れられるというゲームに、ぬいぐるみの景品を用意するということはつまり、そういうことだ。
「確かに可哀想かも……でもほら、袋被ってるし大丈夫だよ」
琴葉はそう言い訳みたいに言い、誤魔化して笑うのだった。
「はい、じゃあひとり三回ね」
二人の番になり代金を渡すと、気の良さそうなスキンヘッドの初老男性がおもちゃの銃を二人に渡す。引き金を引くとコルクの弾が発射されるコルク銃だった。
「先にやる?」
琴葉がそう言う。凪人は何だか緊張していたこともあり、「ううん、先にやって」と返す。
琴葉がコルク銃を構え、真剣な面持ちで引き金を引く。
結果として琴葉の放った弾は三発中二発が命中したもののぬいぐるみが倒れることはなく、とうとう凪人の番になってしまった。
「まかせて」
凪人はいつになく気取って言い、集中してコルク銃を構える。呼吸を整え、銃口をぬいぐるみに向け、引き金を引く。
最初の一発、銃口から勢いよく飛び出したコルクは、ぬいぐるみの頭部を目掛けて一直線に突き進む――ぬいぐるみは一瞬後ろにのけ反ったが、持ち堪えてしまう。
続いて二発目、弾はぬいぐるみの左に逸れ、背後の紅白幕を揺らしてしまう。
三発目、これが最後の弾だ。銃口から放たれた弾は初めの一発と同じように真っ直ぐぬいぐるみの頭に向かって飛ぶ――脳天に直撃、ぬいぐるみは音も立てず倒れる。
思わずガッツポーズをする凪人。琴葉も「すご!」と声を上げ、小さく拍手をする。
「これ、あげる」
射的屋を離れしばらく歩いたところで、凪人は先ほどのテディベアを琴葉に差し出す。「え、そんな悪いよ」と琴葉。
「いいよ。俺が持ってても仕方ないし」
凪人がそう言い、テディベアを渡す。琴葉は両手に乗せてしばらく眺め、「ありがとう。大事にするね」と嬉しそうに言うのだった。
歩いていると急に、琴葉に袖を掴まれた。凪人が内心ドキドキしながらも見ると、琴葉は顔を隠すように俯いている。琴葉の行動の意味が分からず困惑する凪人だったが、すぐにその訳を理解することになる。
「それでさー」
聞き覚えのある声が耳に入る。声の方向に目を向けると、同級生が五人ほどこちらに向かって歩いてきていた。男子二人、女子三人の集団には同じクラスの庄本に、琴葉のクラスの男女もいるようだった。
「あ、入日くん?」
しまった、そう凪人は思った。すれ違おうとした時、庄本がこちらに気づいたのだ。無視するわけにもいかず、凪人は振り向く。
「やっぱり! 入日くんじゃん」
庄本はそう言いつつ、笑顔でこちらに向かい歩いてくる。琴葉は袖を掴んでいた手を離す。
「来てたんだ」
凪人は頷く。庄本は更に続ける。
「そうそう。さっき水坂くん見かけたよ」
「そうなんだ」
凪人はどうして良いか分からず。単純な返事しか出来ない。
「あれ? 水坂くんと一緒じゃないの」
「ほら、庄本は彼女と来てるから」
凪人がそう言うと、庄本は「そっか、さすがだね」という。
「なら、誰と来てるの」
庄本はそう言いつつも凪人の後ろにいる琴葉の存在に気づく。数秒ののち、「あ、そういう感じね」と庄本は呟く。そういう感じとは何を意味するのか、凪人にはすぐに分かった。
「いや、そんなんじゃないって」
すかさず弁明した凪人だったが、庄本は「ごめんごめん、お邪魔しちゃって! それじゃ、楽しんで」とだけ言い残すと行ってしまった。
「ごめんね」
離れていく庄本たちの背中をみていると、か細い声で琴葉が呟いた。
「その、変な感じになっちゃって」
琴葉は俯いたまま、そう続ける。
「どうして?」
凪人は琴葉に訊く。
「だって私のせいで、だから」
琴葉の言葉に、凪人は堪らなく、いたたまれない気持ちになる。それと同時に琴葉をここまで苦しめる得体のしれないものに対して、怒りすら覚えた。
「関係ないよ」
凪人は出来る限り心を落ち着かせてそう言う。「でも」と呟く琴葉に、凪人はさらに続ける。
「琴葉と行きたいって思ったから来てるだけだし。それに、今も十分楽しいから」
琴葉は顔を上げる。
「ほんとだよ。今日が今までで一番かも」
凪人がそう言ったのち、二人の間に沈黙が流れる。
「大げさだよ」
凪人が本心を言ったものの、少し格好つけているように思われたのではないかと不安になり始めたとき、琴葉が小さな声で、そう呟いた。
「でも、ありがと。私も楽しいよ」
琴葉はそう言って振り返り、笑うのだった。
それからしばらくは二人で色々なものをみて、食べて、露店を楽しんだ。凪人は人混みが得意な方ではなかったが、綿あめ片手に満足げな琴葉を見ていると無性に嬉しくなるのだった。
「ちょっとトイレ行ってきて良い? 花火始まる前に行っときたいし」
仮設トイレの前を通りがかったとき、琴葉がそう言った。
「うん。僕も行こうかな」
「おっけー。じゃあ、終わったらそこ集合ね」
琴葉は街路樹を指さしてそう言う。
「うん。またあとで」
凪人はそう言って琴葉と別れた。
男性用トイレには行列ができていて、凪人はその最後尾に並んだ。琴葉の方は、と見ると女性用トイレの方にはさらに長い列が出来ていた。
凪人の番は思っていたよりも早くきて、少しほっとしながらも用を足し、約束の場所、街路樹の下で琴葉を待つ。しばらくして、ポケットの中でスマートフォンが振動した。スマートフォンを取り出し通知を確認する。
〈調子はどうだ?〉、水坂からのメッセージだった。確か水坂は、後輩の彼女と花火大会に来ているはずだ。
〈まあまあかな。そっちは?〉
凪人はそう返信しつつ、ディスプレイ左上に表示された時刻を確認する。時刻は十八時三十分だった。大丈夫、花火打ち上げまでにはまだ時間がある。考えているうちに水坂から返信が届き、凪人はさらに返信する。やり取りを何往復か繰り返したのち、彼女が来たから、と水坂からの連絡は来なくなってしまった。凪人はスマートフォンをしまい、再び琴葉を待つ。
流石におかしい、そう思い時刻を確かめたのは、十八時四十五分のことだった。トイレから出て水坂から連絡が来たのは十五分も前で、琴葉と別れてからの時間を考えると、既に三十分近く経っているはずだ。スマートフォンを確認するが琴葉からのメッセージは届いていない。〈大丈夫?〉と打ち込み、送信ボタンを押すが、電波が悪いらしく送信することが出来ない。電話もつながらない。辺りを見渡しても琴葉の姿はない。
嫌な予感は刻一刻と増してくる。変な男に絡まれているのではないか、変な人に攫われたのではないか――――それとも、またあの化け物と。そう考えると居ても立ってもいられなくなり、ついにその場を離れ琴葉を探すことを決めた。
最初に声をかけたのは、近くにいた警備員だった。凪人は浴衣の柄や髪型など、琴葉の特徴を説明したうえで姿を見ていないか尋ねたが、「そう言われてもね、今日は人が多いから分からないよ」と突っぱねられてしまう。
それから仮設トイレの周りを必死になって探したが、やはり琴葉はどこにもいなかった。さっきまであんなに楽しげにみえた景色が、今ではゴールのない、危険な迷宮のように思える。
「凪人」
突然名前を呼ばれ振り向くと、そこには水坂の姿があった。傍らで後輩の彼女、安藤が会釈する。
「あれ、一人かよ」
そう言う水坂に、凪人はこれまでのいきさつを話した。
「じゃあ、あれってやっぱ」
水坂はそう言い、安藤と顔を見合わせる。
「走ってる女の子がいてさ。月波っぽいとは思ったんだけど、急いでるみたいだったから——」
水坂の話によると、会場のはずれで琴葉の姿を見たらしく、神社の方に向かい走っていったとのことだった。二人に軽く礼を言うと、凪人は走り出した。どうやらトラブルに巻き込まれたわけではないみたいだ。それは良い。でも、だとすれば考えられる可能性は今のところひとつだ。分厚い壁のように思える人混みに阻まれながらも、凪人は走る。何度か肩がぶつかり、背後から舌打ちや罵声が聞こえた。周囲から好奇の視線を向けられているのを感じるが、それに構わず凪人は走り続ける。
走るうち、視界が歪んでくる。泣いている場合ではない。こうしている間にも、琴葉の身が危険に晒されているかもしれないのだ。
――どうしてこんなことに。




