第五話 抱えるもの ——入日凪人
あれから一週間、琴葉は学校に来ていない。メッセージによると、家の事情があるとのことだった。家の事情、はじめのうちはその言葉を信じていたが、休みが重なるうちに段々と心配になってくる。
琴葉がクラスで浮いているのなら、クラスメイト達との間で何かあったとしても不思議ではない。または先日の化け物が関係しているのかもしれない。もしも化け物がまた現れて、それで学校を休まなければならない事態になっているのだとすれば、今まさに琴葉の身が危険に晒されているのかもしれないのだ。
「本当に大丈夫?」メッセージアプリで文章を打ち込み、躊躇して送信ボタンを押すことなくスマートフォンをしまう。昨日からこんなことばかり繰り返していた。本当に家の事情で休んでいるのだとすれば、この文章は琴葉にとって意味の分からないものになる可能性が高い。加えて琴葉が家の事情だと言っているのなら、あまり詮索するのは好ましくないとも思う。
教室から同級生と、その母親が出てくる。今日は三者面談、成績や進路についての話し合いをすることになっているのだが、進路が決まっていないことで話し合いが難航する可能性が高いからか、凪人の面談はクラスでも一番最後尾に設定されていた。
しかし、三者面談直前になっても、未だに将来も進路のことも凪人にはよく分からない。横にいる父親は、窓からグラウンドを眺めている。この人が何を考えているのかも、凪人には全く分からない。
「どうぞどうぞ、お入りください」
入り口から担任の教師が顔を出して笑顔で言う。みると、いつものジャージ姿ではなく、スーツを着ている。隣にいた父親は会釈をすると歩みを進める。将来への不安と、琴葉への心配を胸に、凪人も教室へ入る。
凪人と父親、担任教師が机を挟み二対一の構図で座った。三者面談の日の教室はいつになく静かで、まるで知らない場所のようだと凪人は思う。
「凪人くんの進路についてですが――」
簡単な挨拶と、成績の話を終えると、進路のことへ話題が移った。
「ご家庭で何か、お話はされていますか?」
「息子と話はしているのですが、これといってやりたいことが見つからないとのことで――」
凪人は二人の会話を黙って聞く。担任は気まずそうに話す。
「凪人くんの将来に関わる重要な節目なので決めかねるのは理解できます。ですが、受験生にとって夏休みは非常に貴重な時間なので、せめて就職か、進学かだけでもお伺いすることは出来ませんか?」
父親が凪人をみる。担任も凪人に目を向ける。二人の視線が集中し、思わず目を逸らす凪人だったが、俯いたまま口を開いた。
「――進学で、お願いします」
担任と父親は黙って聞いている。
「正直、就職は自分の中に選択肢としてはないです。急に働くなんて想像できません」
これは凪人の本心だった。自分が何をしたいのかも、行くべき学校も分からない凪人だったが今すぐに就職し、大人として生きていくことには抵抗があった。いつか後悔することが目に見えており、それが何よりも怖いのだ。
それからは文系の進路を選ぶことを前提として、進学の方向で話し合いが進んだ。具体的な志望校まで決めることは出来なかったが、担任教師が凪人の意見を聞きつつ、今から勉強すれば届きそうな学校をいくつかピックアップし、それによって将来の輪郭を少しだけ捉えることを出来たような気がした。
「それでは、この先はご家庭で話し合っていただく形でお願いします。また何かございましたらご連絡ください。今日はありがとうございました」
担任の言葉を最後に、三者面談は幕を閉じた。
父親と二人で学校を出ると、周囲は既に暗くなりかけていた。二人で歩く。父親とこのようにして歩くのは本当に久しぶりで、凪人はなんだか緊張する。担任のことや三者面談の内容のことを話しながら歩く二人だったが、結局は話が途切れ両者とも黙ってしまった。気まずい雰囲気に辟易していると、父親のスマートフォンに着信が入った。話している内容や口調からして、相手は職場の上司のようだった。父親は話し終えると電話を切る。何やら仕事に戻らなければならなくなったとのことで、凪人に一人で帰るように言うと、父親は駅の方向へ行ってしまった。
凪人は突然一人になってしまった。先ほどの気まずい空気から脱することが出来たものの、何だか見捨てられたようになり、急に寂しくなる。しばらく一人で歩いた後、何となくスマートフォンを取り出し、担任の言っていた大学の名前を検索してみる。ホームページにはきれいな校舎や中庭の芝生など、華やかな写真が並んでいる。下にスクロールすると各学部の紹介があり、それを眺めていた凪人だったが、どれもピンと来ず、スマートフォンを閉じてしまった。三者面談の直後こそ前進できた気がしたものの、結局は将来のことなど想像もできないのだ。
明日は終業式。夏休みを制する者は受験を制す、このような言葉があるように高校三年生の夏休みは非常に重要で、それを目前に進路が決まっていない自身に酷く焦る。
自宅まであと少しというところで、凪人は自宅にまともな食材がないことを思い出した。今からスーパーに行って食材を買い、家で料理をするという気には中々なれず、コンビニエンスストアに寄り道して帰ることを決めた。
サンドイッチとアイスクリームを買い、コンビニエンスストアから自宅に向かって歩く。民家の角を曲がったとき、それが目に入った。 進む方向、六十メートルほど先に設置された街灯が、その奇妙なものを照らし出していた。それは凪人に背を向けて歩いている。
――あいつだ。それは紛れもなく半月ほど前に遭遇した化け物だった。
まずい、と凪人は思う。化け物の正面から、スーツを着たサラリーマン風の男が歩いてきたのだ。男は顔を赤くしており、酒に酔っている様子だ。このままではあの時の自分のように襲われてしまう。助けにいこう、そう思うが自分が助けに入ったところで何も出来ないことは容易に想像できる。どうすべきか迷っているうちに、化け物と酔っ払い男は目と鼻の先まで近づいてしまう。
――化け物の様子は、半月前とは明らかに違った。化け物は酔っ払い男になんて興味すらないといった様子で、素通りしてしまったのだ。酔っ払い男の方も、まるで見えていないかのように、化け物に一瞥をすることもなく両者はすれ違う。化け物は人に対する敵意を全く見せなかったのだ。
ふいに化け物は歩調を速めると、塀の角を曲がっていった。追ってみよう、化け物が視界から消えるのをみた凪人はそう思い走り出した。
敵意が全く見られないとはいえ、得体の知れない化け物に対する恐怖は健在だった。しかし、化け物を追えば彼女に、琴葉に会える気がしたのだ。彼女に会って聞きたいこと、話したいことが、凪人には本当に沢山あった。彼女に会いたい、凪人はその一心で化け物の後を追うのだった。
化け物は歩く速度を段々と上げていく。凪人は走って追いかけるほかなかった。幾人かの通行人を追い抜かし、すれ違い、またいくつかの角を曲がった先で、化け物は止まった。凪人も足を止め、少し離れた電柱に身を隠しつつ様子を窺う。
そこは小さな公園だった。化け物は路上から公園のなかをじっと見つめている。凪人も化け物と同じ方向をみる。
――灯りに照らされたベンチには、人がふたり座っているのが確認できた。片方は小学生くらいの男の子で、もうひとりの少女は、琴葉だった。二人は何か話をしているようだ。男の子は時おり身振り手振りを交えながら楽しそうに話している。琴葉もその様子を微笑を浮かべながら見守っている。一週間ぶりに見た彼女の姿に、凪人は深い安堵を覚えた。
しばらくした後、凪人は化け物の様子が気になって視線を戻し、息を呑む。化け物の頬に、涙が伝っていた。化け物は、肩を震わせ泣いていたのだ。そして何よりも驚いたのは、化け物が段々と消えていっているようにみえたことに対してだ。化け物は細かな光の粒を全身から発しながら消えていく。それは夜空に浮かぶ星々のようにも、燃え盛る炎のようにも、また焚火から散る火の粉のようにも見えた。悲嘆の影はなく、どこか幸せそうな様子で光のかけらを宙に舞わせながら消えていく姿に、凪人は気づけば夢中になっていた。
琴葉が立ち上がり、消えゆく化け物に向かってお辞儀をする。目を瞑り深々と。そうしているうちに、化け物は完全な光の粒となり、空に消えてしまった。
どのくらい経った頃だったか、凪人は歩き出した。そして二人に近づくと、声をかけた。
「な、凪人くん?どうして」
琴葉は驚いた様子で声を出した。凪人がここに来るまでの経緯を説明しようとすると、琴葉に制止された。琴葉はどうしてか、とても焦っているようだった。今度は男の子の方から、思いもよらない質問が飛んでくる。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
凪人は男の子がどうして自分を心配しているのか全く分からず困惑する。
「凪人くん、何かあったの?」
琴葉の質問に、さらに混乱する。
「どうして泣いてるの?」
男の子の言葉に、凪人ははじめて気がつく。瞳から、また一粒の雫が流れる。自分でも分からないまま、凪人は泣いていたのだ。
「そろそろ帰ろっか」
しばらくして凪人が落ち着いたことを確認すると、琴葉がそう言った。三人は、男の子を挟む形で並んで歩き出した。帰り道は男の子の小学校での出来事や、楽しかったことなどを聞いていた。話によると、男の子には父親がいないらしく、母親と二人で暮らしているようだった。その話を聞き、自分と重ねて複雑な心境になる凪人だったが、母親はとても優しく、父親がいなくても幸せだという男の子の様子に少しだけ安心するのだった。
「なんか家族みたい」
男の子が突然言う。男の子は凪人と琴葉を交互に見比べながらさらに続ける。
「お父さんもいたらこんな感じだったのかなー」
凪人が琴葉をみると、琴葉もまた凪人の顔を見る。一瞬だけ顔を見合わせた二人だったが、何だか恥ずかしくなって前を向きなおすのだった。
男の子の家に着くと、母親とみられる女性がすぐに出てきてお礼を言われた。
「いえいえ、こちらこそ楽しい時間を過ごさせていただいて――」
琴葉は謙遜して返す。このような状況には慣れているようだった。しばらく話をしたのち、夕飯の支度があるとのことで女性は男の子と共に家に戻っていった。
二人はすっかり暗くなってしまった住宅街を歩く。
「もしかしてあれ、幽霊だったりする?」
凪人が琴葉に訊く。凪人が化け物を幽霊ではないかと考えた理由はいくつかあった。そのひとつは、凪人と琴葉以外には化け物が見えていない様子だったことからだ。そしてもうひとつの理由は、あの化け物の正体は男の子の父親なのではないかと考えたからだ。男の子の様子をみて化け物は涙を流し消えていった。あれはいわゆる生前の心残りを果たして成仏した、ということなのではないかと推測できた。
「……知らないって言っても、もう信じてもらえないよね」
琴葉はそう言い、さらに付け足す。
「でも、ごめん。やっぱり言えないや」
その言葉に、凪人は少しだけ落胆する。琴葉が自分に心を許していないということも落胆の理由のひとつだが、何よりも琴葉が何かをひとりで抱え込んでいるという事実が、凪人にとっては深刻だった。
「ねぇ、覚えてる?」
しばらくして、今度は琴葉が凪人に訊く。凪人は何のことだか全く分からず聞き返してしまう。
「ほら、さっきの公園」
公園? そうだ、と凪人は思う。あの公園は、小学生の頃に琴葉とよく遊んだ場所のひとつだった。そして、夢でよくみる公園でもある。
「ああ、昔よく行ったよね」
「うん。今日久しぶりに行って思い出しちゃったよ。あの頃は楽しかったなー」
琴葉は夜空を見上げながら言う。凪人も見上げると、そこには満点の星空があった。輝く星々のひとつひとつは自分がそこに存在しているのだということを一生懸命に訴えているように思えた。同時に、いま目に見えている星はとっくの昔に消滅してしまって、もう存在していないのかもしれないということを思い出し、途方もない気持ちになる。
「凪人くんはどう? あの頃に戻りたいと思うこととかあったりする?」
琴葉の声に、宇宙の星々のことに持っていかれていた凪人の意識は再び連れ戻される。
「あるよ。あの頃が一番楽しかったかも」
琴葉は「そっか」と相槌を打つ。気のせいかもしれないが、琴葉の声色にはどこか哀しみが混ざっているように思えた。
「コンビニの帰りだったの?」
琴葉が凪人に訊く。凪人は「そうだよ」と言いつつも、あることに気がつく。アイスクリームを買ったのだった。もう溶けているかもしれない、そう思って袋に手を入れて状態を確かめる。家に帰った頃には完全に溶けてしまうくらいの状態だった。
「そうだ、アイス買ったんだった。良かったら」
凪人そういってアイスクリームを琴葉に差し出す。凪人が買ったものはチューブ型の、二本で一セットになっているものだった。
「え、良いの?」
「良いよ。どうせ家帰った頃には溶けてるし」
凪人がそう言うと、琴葉は「ありがとう」と言ってアイスクリームを受け取る。二人でアイスクリームを食べつつ、話しながら歩く。「おいしい」、琴葉が呟く。
話題は昔の思い出から男の子のこと、その父親のこと、成績のことに移っていった。
「みてみて、あれ」
琴葉がそう言いながら立ち止まり、指を差す。凪人も立ち止まってみると、民家の塀に一枚のポスターが貼られていた。大輪の花火が咲いている写真を背景に、大きな文字で花火大会と書かれている。地域で行われる花火大会のポスターだった。この地域の花火大会はなかなかに大きなもので、毎年内外からの多くの人で賑わうのだ。そして凪人たち周辺地域の学生にとっては数少ない楽しみのひとつであり、友人と行くもよし、恋人と行くもよしの思い出づくりの一大イベントとなっていた。
「行ったことあったよね。小学生の時だっけ」
凪人がそう言うと、琴葉は頷く。
「楽しかったなー。でももう遠分行ってないかも」
琴葉はそう言って少しだけ笑う。日程を確認すると、今週の土曜日、つまり三日後に行われる予定だった。凪人は自身の予定を思い返し、土曜日が空いていることを確認する。
「良かったら行く? 一緒に」
凪人は思い切って琴葉を誘ってみることにした。琴葉は少し返事に困っているようだった。凪人は何だか気まずくなり、「暇だったら、嫌じゃなかったらだけど」と付け加える。ついに琴葉が口を開く。
「ごめん。行けない」
断られるという想定を、凪人も少しはしていた。何も楽観的に考えて誘ったわけではない。しかし実際に断られてみると、そのショックは想定以上のものだった。
「いや、凪人くんと行きたくないとかじゃなくて」
凪人のショックを察したのか、琴葉がフォローを入れる。凪人もこのままではダメだと思いショックを隠そうと声を出す。
「良いよ良いよ。何か予定とか? あ、もしかして他の人と約束してた?」
琴葉は「そういうわけじゃなくて」と少し焦ったように言う。
「大丈夫、本当に大丈夫だから。急だったよね、誘うの」
凪人は笑顔を作りながら言うと、黙ってしまう。これ以上何を言えば良いか分からなかったのだ。次第に琴葉も黙ってしまった。
「――――から」
少しの間、沈黙していた二人だったが、凪人は一瞬、琴葉が何かを呟いたことに気がついた。凪人が隣をみると、琴葉は俯いたまま歩いていた。
「一緒にいたら、凪人くんに迷惑かけちゃうから」
もう一度呟いたその言葉を、凪人は今度こそ聞き逃さなかった。
迷惑をかけるという言葉の意味、凪人にはおおよその察しがついた。花火大会は学生にとっての一大イベント、つまり当日の会場では学校の同級生たちも大勢見かけることになるだろう。琴葉はクラスで浮いている、そのことを考えると、一緒にいるところを目撃された凪人までも学校で浮いてしまう可能性は大いにある。それを琴葉は心配しているのだと凪人は理解した。
「私、クラスで浮いてるの。凪人くんも知ってるでしょ。だから一緒には――」
「関係ないよ」
凪人は琴葉の言葉を遮って言う。
「クラスのことも聞いたし、何か言えない事があることも分かってる。でもそんなの俺は気にしない」
凪人は琴葉を見つめる。琴葉は俯いたままだった。
「俺はただ、琴葉と花火大会に行きたいって思ったから誘っただけ。だから――」
琴葉が顔をあげ、涙をいっぱいに溜めた瞳を凪人に向ける。凪人は続けて言う。
「だから、一緒に行ってくれない?」
勢いでここまで言った凪人だったが、最後の言葉が少しキザすぎやしないかと急に不安になった。しかしそんな不安は、琴葉の言葉で一瞬のうちに晴れることとなる。
「――うん! 分かった。一緒行こう」
琴葉は瞳を潤ませたまま、はにかんで笑って言うのだった。
断る琴葉を夜道は危ないからと半ば無理やり家まで送り、凪人が帰宅したのは21時前のことだった。暗い玄関で電灯のスイッチを押し、明かりをつける。リビングのテーブルで買ってきたハムサンドを頬張りながら、琴葉は本当に大丈夫なのだろうかと考える。花火大会へ一緒に行けることが決まったことは嬉しいとは思うものの、クラスのことや家のことなど、琴葉が抱えている問題を思うと素直に喜べるような気分になれなかった。
琴葉は「家の事情」を理由に今まで学校を休んでおり、今日もまた、あの化け物と関わっていた。そして、化け物の正体については知っていながらも教える訳にはいかないという様子だった。このことから考えるに、琴葉の言う「家の事情」には、少なからずあの化け物が関係しているのだろう。
琴葉は一体、どれほどのものを抱えて生きているのだろう。そう凪人は思う。
――結局、翌日に行われた終業式にも琴葉の姿はなかった。




