第四話 思い出と救世主 ——入日凪人
「入日くん」
ある日の朝、教室で一時限目の準備をしていると、クラスメイトから声をかけられた。名前は庄本由華。活発で友人も多い、いわゆるクラスの中心人物と言えるような女子だった。二年生の時に一度だけ同じ班になったことがあり、今では別に仲が良いわけでもないが時々話すくらいの浅い仲だ。
「最近さ、二組の月波さんと一緒にいること多いよね。ひょっとしてそういう関係?」
そういう関係、その言葉に少しだけ戸惑ったがすぐに理解した。すかさず否定する。
「いやいや別にそういうんじゃないよ。ただの友だち」
「ふーん、そうなんだ」
それだけ言うと、庄本は黙る。黙っても去ろうとはしない庄本は何か言いたげな様子でこちらをみていて、それが凪人には酷く不気味に感じられる。
何だか不安になってきたところで庄本は口を開いた。
「勘違いしてほしくないんだけど、あんまり月波さんに関わらない方が良いよ」
「え、どうして?」
咄嗟に聞くが、庄本は答えない。
「その、言いたかったのはそれだけだから。じゃあね」
庄本はそれだけ言うと離れていってしまった。いつものグループの輪に入って会話を始めた庄本の後ろ姿を眺めながら、凪人の思考は混乱していた。
――意味が分からない。琴葉と関わるな、と庄本は言った。琴葉と関わるべきでない理由も、そのようなことを言われなければならない理由も、全く分からなかった。
「二組のさ、月波琴葉って覚えてる?」
昼休みになるまで、今朝のことが頭から離れなかった。そこで、屋上で水坂と昼食をとっている時、何か知っていることはないか訊いてみることにしたのだ。
水坂は頬張っていたサンドウィッチを飲み込む。喉に詰まったのか胸を何度か強く叩いたあと、ペットボトルの水を勢いよく飲み、一呼吸おくと話しだした。
「あ? ああ。幼馴染だっけか。その月波がどうかしたか?」
凪人は今朝の出来事を大まかに説明し、知っていることはないか尋ねた。水坂は一瞬だけ目を逸らすと俯いて何か考え、再びこちらに視線を戻すと話し出した。
「二組のやつから聞いた話なんだけどな、クラスでちょっと浮いてるらしいんだよ、月波」
「は?」
予想外の返答に、すぐに聞き返してしまう。本当に意味が分からなかった。琴葉は、少なくとも自分からみた琴葉は普通の高校生で、クラスで浮いてしまうような要素なんてないはずだった。
「ほら、月波の家ってちょっと特殊なんだろ。なんかの宗教の本家だったか、それで根も葉もない噂が立ってんだよ」
宗教? またしても予想だにしない返答に混乱してしまう凪人だったが、一度だけ、琴葉の家に行ったことがあるということを思い出した。
小学生の頃の話だ。確か、琴葉が何日か連続で学校を休んだ時に、宿題と学校からの便りを届けに行くよう担任教師から頼まれたことがあったのだ。
琴葉の家は日本建築の大豪邸で、敷地は自宅の何倍も広く、大きな門には守衛が常駐していた。結果として琴葉に直接会うことは許されず、守衛に届けてもらうことになったのだが、子どもながらに特異性を感じ、大きな衝撃を受けたのを思い出した。
「まあ、あんまり気にすんなよ。噂は噂だからさ」
水坂はそう言ったが、凪人は生返事をすることしか出来ない。それからしばらくは話題を変えて会話を続けていたが、正直な話、頭は琴葉のことでいっぱいで、会話の内容は全く入ってこなかった。
やがて五時限目の予鈴がなると、水坂と凪人は急いで教室に戻るのだった。
クラスで琴葉が浮いているなんて――――午後の授業中、凪人は考える。
琴葉がクラスで孤立している、その可能性について、一度も考えたことがなかった。しかし、そうだとすれば今朝の庄本による「関わるな発言」にも合点がいくように思える。学校で浮いている琴葉と仲良くしていれば、こちらまで浮いてしまうかもしれない、それを庄本も危惧して心配してくれているのだろう。であるならば、自分はどうすべきか、全く分からない。琴葉といることで前を向ける気がしていたのに、どうしてこのような事になってしまうのだろう。凪人はほとんど絶望的な気持ちで、そう思うのだった。
放課後、帰り支度を終えると二組に向かう。とりあえず、まずは琴葉に会ってみるべきだと思ったからだ。
廊下から教室を覗くが、琴葉の姿が見当たらない。ロッカーをみると、荷物もなかった。何か連絡はきていないかとリュックサックの中でスマートフォンを開く。すると、メッセージが一通届いていた。体調不良で早退した、とのことだった。顔を上げると、教室の中からチラチラとこちらをみる視線があることに気が付いた。数人がこちらを横目に小声で話しているように感じる。なんだか嫌に気分が悪くなり、足早にその場を離れることにした。階段を下り、生徒玄関で靴を履き替え、校門を出る。
――なんて情けないやつなんだ。凪人は歩きながら思う。幼馴染で、大切な友人であるはずの琴葉のことすらも守れない、現に怖くなって逃げ出すように学校から出てきた自分が、酷く情けなく思える。同時に、仕方ないじゃないか、と言い訳じみた言葉も浮かんでくる。第一自分はそれほど強い人間ではないのだ。最近になって前を向けた気がしたのも、楽しかったのも全て琴葉のおかげであって、結局自分には周囲から孤立する度胸も現状を変える力もないのだ。
陽炎に歪むアスファルトの向こうには、飛び込むと泳げてしまうのではないかと思うほどに巨大な入道雲が遠く浮かんでいる。数年前まではあれほどまでに輝いてみえた夏の景色も、今となっては空虚な張ぼてのようにしか映らない。琴葉と下校するようになったことで少し明るくなったような気がした人生も、まやかしに過ぎなかったのだと思い至る。
「待ってよ!」
突然男の子の声が聞こえ、まもなく凪人の横を女の子が追い抜かしていった。次は女の子を追うように、男の子が横を追い抜かしていく。走り去っていくふたつのランドセルを無意識に目で追ってしまう。不意に過去の自分たちと重っていく。
それは凪人が小学一年生の時の話だ。
二時間目を終えた二十分程の休み時間、ほかの児童たちは外で遊んだり教室で絵をかいたりと各々好きなことをして過ごしているなか、凪人はひとり座って机に顔を伏せていた。数日前、知らない場所で黒い服を着た大人たちと何時間かを過ごして帰ってきてからというもの、凪人はずっとこの調子だった。
「お母さんはちょっと遠くにいかなくちゃいけなくなったんだ」
あの日の帰り道に父親が言った言葉、黙って頷いた凪人だったが、内心では分かっていた。涙を瞳いっぱいに溜めた父のぎこちない笑顔に、震えた声に、母親にはもう会えないのだということを。
悲嘆に暮れていると、突如体に衝撃が走って机ごと勢いよく倒れてしまった。教室内で走り回っていた二人の児童のうちの一人が勢い余ってぶつかってしまったのだ。凪人が訳も分からないでいると、ぶつかってきた本人は「痛ってぇな」と呟き凪人を睨みつけてきた。
「邪魔なんだよ」
児童はさらに言う。ぶつかられたのはこちらなのに、どうしてそこまで言われなければならないのか分からず困惑する。
「お前、最近キモイんだよ。全然喋らねぇし」
もうひとりによって理不尽に罵倒され、凪人は咄嗟に「ごめん」と謝ってしまう。
「待ちなさいよ!」
ぶつかってきた児童二人が舌打ちを残して去ろうとした時、大きな声が凪人の耳に飛び込んできた。見ると、ひとりの少女が仁王立ちしている。
「あんたたちがぶつかったんでしょ!直しなさいよ」
「うわ、鬼おんながきた!」
児童の一人がいうと、二人は揃って忽ち逃げて出した。少女もとっさに追いかけようと数歩踏み出したが、すぐに戻ってくると凪人と共に散らばってしまった教科書や倒れた机を元に戻しはじめた。
「ありがとう」
凪人が泣きそうになりながら言うと、少女は凪人の顔を心配そうにみつめる。
「大丈夫?」
少女に訊かれ、凪人は黙って頷くのだった。
放課後の帰り道、凪人は少女と並んで歩いていた。帰りの支度をしていた時、「一緒に帰ろ」と誘われたのだ。秋の空は飲み込まれてしまいそうなほどに高く、遠くに見える山々は紅葉に染まっている。そんな絵にかいたような秋のなかを、凪人は俯きぎみに歩く。
「噓だよね」
しばらく歩いた時、少女が突然呟いた。凪人が何のことだか分からず隣を見ると、少女は空を見上げている。
「大丈夫って言ってたの、噓だよね」
凪人は胸の奥底から湧き上がる何かを感じる。少女はこちらをみる。
「話してみて、大丈夫だから」
その言葉に、凪人は堰を切ったように泣き出してしまった。
少女は少しだけ慌てたが、すぐに冷静さを取り戻すと凪人を近くにあった公園のベンチに座らせた。それから凪人はすべてを話した。母親がいなくなってしまって、二度と会えそうにないことも、周りを心配させてはいけない、父親も大変なのだから自分が困らせるわけにはいかないと泣かないようにしていたことも。抑え込んでいた感情の全てを吐露した。少女は静かに、時に相槌を挟みながら真剣に聞いていた。そして、凪人が話し終えると少女はこう言った。
「辛かったよね。分かるよ。もう大丈夫だよ」
すべてを話し終えた凪人を待っていたのは、深い安堵だった。この世にたった一人だけ自分のことを分かってくれている人がいるということは、凪人を大いに安心させた。
「大丈夫、大丈夫だよ。私は味方だからね」
少女は凪人の背中をさすりながら、そう言うのだった。
「そういえば名前は?」
凪人の自宅前についた別れ際、少女にそう訊かれた。凪人は自分の名前を答えたあと、同じ質問をお返しする。そして、少女が答える。
「月波琴葉だよ。お琴の琴に、葉っぱの葉って書くの。よろしくね」
――それが彼女、琴葉との出会いだった。彼女に母親がいないことを知ったのは、あれから少し経ってのことだった。
思い返してみれば出会ったあの日から、琴葉には救われてばかりだ。大げさではなく、本気でそう思う。あの日、どうしようもない暗闇の中から連れ出してくれたのは紛れもなく琴葉だった。それに比べて自分は今まで、琴葉に何かしてあげられていただろうか。何か与えることはできていただろうか。
今度は、と凪人は思う。今度こそ、自分が彼女を助けになりたい。彼女が苦しいというのなら、その原因を取り除きたい。孤立するのは辛い。でも何もせず、傍観しているだけの自分でいるのはもっと辛いのだ。
これからはどんなことが起きても、自分だけは彼女の味方であり続けよう。そう、凪人は強く思うのだった。




