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第三話 遭遇と再会  ——入日凪人

 またあの夢だ。目覚ましのアラームにたたき起こされた凪人は天井を眺めながら、今日も思う。重たい体を無理やりに起こし、ため息をつく。――こうして、いつもの停滞した一日がまた始まる。


 凪人が一通りの支度を終えて自宅を出たのは午前八時前のことだった。通っている高校までは歩いて三十分くらい。急げば始業時刻には間に合うはずだ。嫌になるくらいに晴れ渡った空の下を、重い足取りで歩く。昼にかけて更に気温が上昇していくというのが少し信じられないくらいに暑い。


 三者面談。一学期末に行われる三者面談まではあと半月ほどで、同級生たちはきっとその時に最終的な進路決定を下すのだ。というか、未だに進路を決められていない人の方が珍しいのではないかと思う。もしかしたらそんな人は学校中を探しても自分くらいなのではないか、そんな考えが過ぎり、まるで深い谷底を覗き込んだ時のような、心底絶望的な気分になる。


 通学の道のりも半分を過ぎ、ペンキの剥げた歩道橋を渡る。眼下の片側二車線の道路をみると、いくつかの自動車が鈍いエンジン音を放ちながら近づいてきては、風を切る音をさせて通り過ぎていく。

 もしもいま、と凪人は思う。もしもいまここから身を投げれば、楽になれるだろうか。良かったことも、嫌だったことも茫漠とした将来への不安や他者への嫉妬も、きれいに消えてくれるだろうか。行く先は天国だろうか、地獄だろうか。そのどちらだとしても、と凪人は思う。行く先が天国でも地獄でも、現実を生きる方が自分にとってはずっと苦しいのだ。

 立ち止まり、手すりに手をかけ道路を見下ろす。飛び降りる自分と、そのあとの光景を想像する。ふいに手が震えている。消えたいと思いながら、死ぬことを恐れている自分に気づく。嫌いだ、そう思う。現状を変える行動も起こせなければ、終わらせてしまうことも出来ない自分が嫌いだ。そう強く思う。


 しばらくした後、諦めて学校に行こうと手すりから手を離し、歩道橋の階段を降りかけた時だった。凪人の目にあるものが映る。

 ()()は光の一切を拒絶したような漆黒で、一見すると空間に突然ぽっかりと空いてしまった穴のようにも思えた。しかし、人型であることと確かに感じられる息づかいから、命の宿った生き物であるのだと凪人は直感した。化け物だ。


 とてもこの世のものとは思えない化け物は階段をゆっくりと踏みしめながら上ってくる。そいつに瞳はないが、こちらを鋭く睨む視線は確かに感じられる。灼熱の太陽の下で、体中に悪寒が走る。

 逃げなければ――本能がそう訴えかける。化け物を見つめたまま後ずさりを始めた凪人だったが、次の瞬間には尻餅をついて転んでしまった。どうやら何かに(つまず)いてしまったらしい。

 見ると、化け物がすぐそこまで来ている。立ちあがろうとするが、手足が震えて上手く力が入らない。こうしている間にも、化け物はこちらを見つめながら容赦なく近づいてくる。助けを求めようにも震え掠れた声しか出ない。鼓動と呼吸が荒くなる。化け物が目の前に来て、こちらを見下ろす。

 これは、もう駄目だ。凪人は観念して顔を伏せ、目を瞑る。


「ごめんね」

 声が聞こえた。山中を流れる小川の瀬を思わせる、弱くもはっきりとした声。聞き覚えのある、懐かしい声。凪人は恐る恐る目を開く――そこに化け物の姿はなく、代わりに少女の後ろ姿があった。凪人の通う高校の制服を着た少女。ロングボブの髪が風に揺れている。

「大丈夫?」

 少女が振り向いて言う。雲ひとつない冬の夜空のように澄み渡った大きな瞳が凪人を映した時、やはりそうだ、と思う。思った通り、目の前にいる少女は凪人の幼馴染、月波琴葉だった。しかし、どうして彼女が。


「う、うん」

 一呼吸おき、半ば無理やりに呼吸を整えた凪人はそう答える。内心は殆どパニックの状態で、心臓はいまだに激しく鼓動している。

「立てる?」

 月波琴葉は座り込んだままの凪人に手を差し伸べる。

「あ、ありがとう」

 凪人は手を掴む。月波琴葉の手は山岳の雪解け水のように冷たく、それでいて柔らかかった。立ち上がり、またひとつ正気を取り戻した凪人は途端に恥ずかしくなり、同時にどうしようもなく情けなくなる。


 月波琴葉と顔を合わせるが、何を言うべきか、何を言って良いのか分からない。以前は一日の大半を一緒に過ごし、下の名前で呼び合うくらいには仲が良かった。しかしそれも今となっては昔の話で、ここ数年は学校で見かけることはあっても決して話したりはせず、互いに見えないふりをするようにして過ごしていた。だから、今さら目の前に現れた幼馴染をどう呼んでよいのかすらも、凪人には分からなかった。


「なんか久しぶりだね、凪人くん」

 先に口を開いたのは月波琴葉の方だった。凪人くん、その昔と変わらぬ呼び方に少しだけ安心する。

「そうだね」

 そう返しつつ琴葉、と心の中で付け足す。琴葉が以前と同じ呼び方をしたのだから、自分からも以前と同じように呼ぶのが自然だと分かってはいるのだが、どうしてか下の名前を声に出すことは出来なかった。

「怪我とかしてない?」

 琴葉が心配そうな顔で言う。

 「平気だよ。ありがとう」

 そういうと、琴葉は「良かった」と言って再び表情を緩めた。ふと繰り返し見る夢のことを思い出す。心配そうな顔も、安心した顔も、記憶の中の彼女と殆ど同じで、凪人にはどうしてかそれがとても嬉しかった。


「ところで、さっきのって――」

「知らないよ」

 今度は凪人から口を開き、先ほどの化け物について訊こうとしたが、遮るように即答されてしまった。真面目な顔と準備をしていたような返答に凪人は嘘だと思う。あの状況で、あの化け物について何も知らないというのはあまりに白々しい。琴葉は何かを隠している、そう思った。しかし助けてもらった手前、これ以上問い詰めることは出来なかった。それに隠すからには何か理由があるはずなのだ。

「それと、今日のことは誰にも言わないで」

 琴葉は真剣な表情のまま言う。

「え、それってどういう――」

「急ご! 遅刻しちゃう」

 凪人の問いかけは、琴葉にまたもや遮られてしまうのだった。

 

 二人で学校まで急ぎ、ようやく着いたのは朝のホームルームが終わった後、一時限目が始まる直前の事だった。学校の規則において、遅刻者は最初に教務室ヘア行き、「遅刻、早退者カード」という用紙に遅刻した理由と反省点を記入、担任へ提出することになっている。二人も例のごとく教務室にいき、用紙を受け取り記入を始めたのだが、ペンはすぐに止まってしまった。遅刻の理由についてどう説明すれば良いか分からなかったからだ。不審者か動物に襲われたからと書こうとも思ったが、事が大きくなるのは避けたかった。琴葉も「誰にも言わないで」と言っていた。そう言うからには琴葉にも何か事情があるはずで、それが明らかになるまで下手な行動はするべきではないと思うのだ。そうは言っても寝坊を理由にしてしまっては琴葉と二人で遅刻してきた説明がつかない。とりあえず琴葉に何と書くか訊くことにした結果、「おばあさんの道案内をしていた」と書くこととなった。

 それから担任にカードを提出した二人はそれぞれの教室に向かった。


 あの化け物は一体なんだったのだろう――――昼休憩も終えた四限の授業中、凪人はそんなことを考えていた。思えば、今日は一日中そのことばかりを考えている。窓から差し込む日光で明暗が綺麗に塗り分けられた黒板の前では英語の女性教師が単語や文法について解説している。今朝の衝撃的な体験が嘘のように、学校では平穏な日常が流れていて、あれは悪い夢だったのではないか、とも思えてくるほどだ。しかし、あの化け物の見た目や遭遇時の空気感、恐怖は今日起きたどの出来事よりも鮮明に思い出すことができ、そのことに今朝の出来事は現実のものなのだと再認識させられる。そもそもあれは生き物なのだろうか、不意にそんな疑問が浮かんだ。もしかすると、あれは霊的な何かなのではないか。はたまた妖怪の類だろうか。化け物の正体について思いつく限り挙げてみるが、そのどれもが現実的ではないように思える。あれの正体が何であったとしても危険性があるということは、周知すべきなのではないだろうか。いや、あれは本当に危険なものなのだろうか。考えてみれば化け物はこちらに向かってきたというだけで直接的な危害を加えた訳ではない。状況的に考えれば、こちらが一方的に恐怖していただけだという可能性もある。

 ――しばらく思案したのち、今日の帰りは琴葉を誘ってみようという結論に至った。自分一人で考えていても仕方がないし、少なくとも琴葉なら何かしら知っているはずなのだ。



 帰り際、凪人はリュックサックを背負うと琴葉がいるはずである隣の教室に向かった。入口から覗いてみたものの、琴葉の姿が見当たらない。もう帰ってしまったのだろうか。

 しばらく待ってみようか考えていると、琴葉と同じ二組の知り合いが通りがかったため、琴葉の所在を訊いてみることにした。

「ねえ、月波さんってもう帰った?」

「え、月波さん?」

 知り合いは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻すと「帰ったんじゃない? 鞄ないし」と言って廊下に設置されたロッカーへ目をやった。確かにロッカーには数冊のファイルが置かれているだけだ。

 凪人は知り合いに軽く礼を言うと、生徒玄関に向かい歩き出した。琴葉が帰ってしまった以上は残っていても仕方がない。また明日にでも聞いてみよう、そう思った。


 靴を履き替えて生徒玄関を出る。周囲は最近になって思い出したかのように鳴き出した蝉たちの大合唱に包まれていた。正門を抜けてしばらく歩くと、凪人はいつもの帰り道を逸れる。あのまま行くと今朝の化け物に遭遇した歩道橋を渡ることになる。何となく化け物がいるのではないかという気がして、あの場所は避けたかったのだ。

 

 思えば、最近は同じ道しか通っていなかった。家の方向へ歩きながら、ぼんやりと考える。毎日が学校と自宅の往復で、他に行く場所と言えばコンビニエンスストアくらい。以前はよく通っていた本屋にもめっきり行かなくなってしまっていた。路地と沿うようにしてのびる用水路からは水流の、民家からは風鈴の涼しげな音が聞こえてくる。たまには帰り道を変えてみるのも良いものだ。

 もうすぐ大通りに出るというところで前方の交差点を見ると、信号を待っている人影がみえた。あの後ろ姿は、と思う。信号を待っていたのは、琴葉だった。


 隣まで行くと凪人は声をかける。

「いま帰り?」

「なんだ凪人くんか、びっくりした」

 琴葉は突然声を掛けられ驚いたのか、そう言うと「うん。いま帰りだよ」と付け足す。

「ごめんごめん驚かせちゃって。一緒に帰ろうよ」

 信号が青に変わると、二人は並んで歩き出した。


「そういえば、期末どうだった?」

 凪人から話題を振る。今朝の化け物のことが気になって仕方がない凪人だったが、琴葉が隠したがっていることを真っ先に訊くのは流石に気が引けるため、ひとまず無難な期末試験の話から始めることに決めた。

「あー、うん。そんなに良くなかったかな。特に数学が」

「分かる。あれ難しすぎだよね。僕も数学が一番悪かったよ」

「だよね。ちなみに凪人くんは何点だったの」

 鋭い質問に、凪人は言葉を詰まらせ琴葉の顔を見る。琴葉はこちらをみると、二人同時に言うことを提案してきた。

「じゃあ行くよ。せーの」

 琴葉の掛け声で、二人は同時に点数を発表する。凪人が四十九点、琴葉が五十八点だった。

「私の勝ちー!」

 得意げな琴葉に、冗談めかして抗議する。

「ずるい、同時に言わせといて五十八点とか罠じゃん!」

「罠にかかる方が悪いんだよ」

「ずる! それ詐欺師の考え方だよ」

「って、どんぐりの背比べじゃん」

 琴葉がそう言い、二人は思わず吹き出した。


 それからしばらくは他愛もない会話をしながら歩き、気づけば自宅の近くまで来ていた。琴葉と二人の帰り道はとても楽しく、なんだか昔に戻ったようで凪人はとても嬉しくなった。また以前のような関係に戻れるなら、心からそう思った。

「ねえ、明日から一緒に帰らない?」

「うん」

 凪人の提案に一度は頷いた琴葉だったが、すぐさま「あー、でも」と自信なさげに付け足した。

「私、学校休むこと結構あるからやめておいた方が良いかも」

 琴葉は小学生の頃から、学校を休むことが多い方だった。全く休まない週もあれば、突然三日連続で休んだりと、これだけ考えれば特に気にする事はないように思えるのだが、一ヶ月に一度は必ず休んでいたのではないかと思う。確か、休む理由について本人に聞いたことが一度だけあり、その時には体が弱く体調がすぐに悪くなってしまうのだと言っていたはずだ。

「良いよ。もともと帰りは大体一人だし」

 凪人がそう言うと、琴葉は「そっか。ありがと」と控えめに笑う。

「あ、連絡先持ってなかったよね、交換しとこ」

 凪人はそう言うと、ポケットからスマートフォンを取り出しメッセージアプリを開いた。琴葉が凪人のスマートフォンに表示された友だち追加用のQRコードを読み取る。


「おっけー出来た。じゃあね。また明日」

 連絡先の交換を終えた琴葉の言葉に、もう自宅の前まで来ていたことに気づかされる。

「うん。また明日」

 凪人が言うと、琴葉は小さく手を振ってから再び歩き出した。


 

 その日の夜、凪人はベッドに寝転んでスマートフォンをじっと見つめていた。メッセージアプリの友だち欄に表示された「月宮琴葉」という文字を、小さな高揚感と共に。夕方、琴葉と別れた後に送ったあいさつ代わりのスタンプに琴葉がスタンプで返してきたところでトークは止まっている。何か送ってみたい気もしたが、何だか照れくさい気がして躊躇いスマートフォンを置いてしまう。そんなことを繰り返しながら、気がつくと眠ってしまっていた。


 翌日から、帰り道を琴葉と共にするようになった。初めのうちは、放課後が来る度に緊張して話題探しに必死で、話し方がぎこちなかったりしないだろうか、会話が途切れて気まずくなったりしないだろうかと不安に感じることもあった。しかしそんな不安も結果として不要なものだった。気がつくと、ごく自然に会話は弾み、沈黙することがあっても大して気にならないようになっていたのだ。二人で話すことと言えば学校で起きたことや最近みた映画、面白かったテレビ番組の話など他愛ない話ばかりだったが、凪人にはこの時間がどうしようもなく大切に思えた。将来への不安や焦燥も、日々における嫌なことや後悔も、この帰り道の時間だけは考えずに前を向いていられる。何を気にするでもなく自然体でいられる。この先、どんなことがあっても、琴葉さえいれば、きっと大丈夫だ。この日々がいつまでも続けば良いのに。そんな気持ちになれるのだ。

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