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第二話 見えない未来  ——入日凪人

「あのなぁ」

 赤色のジャージに身を包んだ、日に焼けた男は呆れ顔で話す。 この男は凪人のクラスを担任する体育教師だ。今は高校の昼休み、凪人は校内放送で呼び出されたのだった。

「他の奴らはもう決めてるんだぞ」

 そう言われ、凪人は担任との間に置かれた机の上にある、一枚の紙に視線を落とす。そこには「進路希望調査票」の記載があった。氏名欄以外は空欄の紙。これは今朝のホームルームで回収されたもので、凪人は白紙のまま提出したのだった。

「すみません」

 凪人は俯いたまま、それだけ言う。

「別に謝ることじゃないけどな、もうすぐ高三の夏休みって時に進路すら決まってないんじゃあ、こっちもどうしようもないんだよ」

「すみません」

 凪人はただ謝ることしか出来ない。担任は更に続ける。

「何かしたいこととかないのか」

「いえ、特には」

 嘘だ。咄嗟に口を衝いた自身の言葉に、凪人は強い拒絶を感じる。凪人には昔、確かな将来の夢があった。しかし、どれほど夢を願っても、努力をしたとしても人生はそう簡単には行かないのだ。凪人はこの数年の間にそのことを痛いほど思い知らされていた。

「親御さんはなんて言ってんだ?」

「特に何も」

 凪人は俯いたまま黙り込む。担任のわざとらしいため息が聞こえ、凪人の心がひりりと痛む。


 しばらくして担任は壁にかけてある時計に目をやると、三者面談までにしっかりと考えておくようにと念を押し、ようやく凪人を解放した。


「今度は何やらかしたんだよ」

 教室に戻ると最初に声をかけてきたのは、同級生の水坂大智(みずさかだいち)だった。水坂とは中学時代からの仲で、凪人の数少ない友人の一人だ。そんな水坂は、にやけ顔でこちらを見ている。

「何もしてないよ。ちょっと進路のことでさ」

 凪人がそう言うと、水坂は間髪入れず口を開く。

「なんだよつまんねえの。それで? 結局のところどうすんだよ」

 水坂の言葉に凪人は心臓をつかまれたような気分になる。

「まさかお前、まだ決めてないの?」

 黙り込んでいる凪人に、水坂はそう追い打ちをかける。凪人は観念して頷く。その様子に水坂は口をあんぐりと開ける。会話の矛先を変えようと、今度は凪人が口を開く。

「そういえば水坂は? 医学だっけ」

「おう、ばあちゃんが医者になれってうるさいからさ」

「県外だっけ?」

 それから水坂は、自身が大学進学を機に上京すること、模試の判定も上々であることなどを得意げに語った。凪人にはそんな水坂が心底羨ましく思えた。水坂には将来のビジョンが明確にあり、そこに希望を持っているように感じられる。それに比べて自分は、と考える。自分には明確な人生設計もなければ新しいことを始める勇気もない。そうやって日々を惰性で過ごしてきた結果、かつて自分が明確に抱いていた夢にさえも自信を持つことが出来なくなってしまったのだ。


「水坂先輩、お呼びだぞ」

 その時、クラスメイトの一人が教室の入り口で声を上げた。廊下を見ると二年生の女子の姿があった。あの子は確か、半年くらい前から水坂と付き合っている安藤(あんどう)とかいう子だ。水坂はいわゆる才色兼備、文武両道というやつで、学問と運動の両方ができる上に、容姿端麗で性格も快活。男女問わず中々に人気があるのだ。世の中ではこんな人のことを完璧人間というのだと思う。

「悪い、ちょっと行ってくるわ」

 水坂はそういって凪人の元を離れる。その背中をぼんやりと眺めながら凪人は考える。水坂はきっと、隣にいるようで本当は自分なんかよりもずっと前を歩いているのだと。


 


 午後の授業を終えて掃除をしたのち、凪人は一人で校舎を出る。放課後の学校は吹奏楽部の楽器練習の音やグランドから聞こえる野球部やサッカー部の掛け声など、色々な音に満ちている。凪人は絵に描いたような青春を横目に学校の正門を出る。学校から離れるにつれて聞こえてくる音は生徒たちの発するものから自動車の排気音や店から聞こえてくる能天気な音楽など、街の音に切り替わる。もうすぐ八月が来ようという夏本番の時期の大気はこれ以上ないほどに温められていて、歩いているだけでもリュックサックを背負った背中からは汗がにじみ出てきて心地が悪い。

 何かしたいこととかないのか、不意に面談で担任に言われた言葉が思い浮かぶ。凪人にも以前は自信を持てる夢があった。小説家になるという夢。そのために何冊もの小説を熱心に読み込んだり、実際に物語を考え、プロットを作って執筆を始めてみたこともあった。だが、他者の優れた作品を読むたびに自身のそれとの大きな差を思い知らされるのだ。それは痛みにも近い感覚だった。自分にこんな物語を作るのは、こんな文章を書くのは到底無理な話だ。自分には小説家として活躍できるような才能は端からなかったのだ。そのようなことばかり考えるようになり、気がつけば小説の世界そのものから距離を置くようになっていた。



 憂鬱のうちに自宅の前に到着する。玄関のカギを開け、誰もいない家に入る。暗く狭い玄関と廊下を抜けてリビングへ、冷蔵庫からポットを取り出し麦茶を注いで飲む。リビングのカーテンは閉じたままで薄暗く、壁に掛けられた時計の秒針が時を刻む無機質な音のみが部屋を満たしていた。隅にある棚の上に置かれた写真立てが目に入る。この写真の中で柔らかな笑みを浮かべている女性は凪人の母親だ。凪人が幼少だった頃に交通事故で亡くなって以来、棚の上には母親が好きだった花とともにこの写真が置かれている。現在は父親と二人で暮らしているのだが、父親はある時を境に仕事を理由に帰宅しないことが多くなり、帰宅したとしても深夜や早朝であることが多くなったため、二人が面と向かって話すことは殆どないのだった。


 凪人は自室に入るとリュックサックを放り、そのままベッドに倒れこむ。視界の端にある本棚ではいくつかの小説とノートが埃をかぶっており、それをあまり意識しないように、ぼんやりと天井をみつめる。


 こんなことをしている場合ではない――――そう強く思う。

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