表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/16

第十六話 それでも  ——入日凪人

 三月の東京は、少し早めに開花したばかりの桜で鮮やかに彩られていた。青く点灯した信号に車を進めると、先程までビルに遮られていた日光が、ハンドルを握る手を照らす。両手に伝わる暖かな感覚が、春の訪れと生命の息吹を感じさせる。

 雑居ビルの建ち並ぶ大通りを逸れ、踏切を超える。周りの建物は段々と背を低くしていき、通行人はまばらになっていく。

 しばらくしたのち、凪人は一棟の古ぼけたアパートの前で車を停めた。ドアを開けて地面に足をつけると、ふいに温く透き通った風が吹き抜け、頬を撫でる。どこか遠くから聞こえる電車の走行音に混じって、小鳥の軽快な鳴き声が聞こえ、空を見上げると二羽の雀が互いに交差しながら、仲睦まじそうに飛んでいた。一、二ヶ月ほど前までの冷え込みが嘘のように、辺りは春の大気で暖かに塗り替えられている。きっと、ここからは見えないだけで冬篭りしていた生き物たちもとっくに目を覚まし、自分と同じように新しい季節の始まりを喜んでいるのだろう。そんなことをぼんやりと考えながらトランクを開ける。視界に入ってきた山積みのダンボールに、少しだけゲンナリした凪人だったが、静かに決意を固めると、すぐにダンボールを運び始めた。

 荷物の運び入れも七割を終えた頃、スマートフォンがポケットの中で小刻みに震えた。画面に表示された受話器のマークをスライドし、応答する。

「……もしもし」

「おう、凪人。今どんな感じだ」

「うん、大体は運び終わったよ。これから荷解きって感じ」

「父さんは?」

「あと小一時間ってとこだ。昼、なに食べる? 途中で買ってこうと思うんだが――」

 ひと通りのやり取りを終え、そっと通話を切った。電話は父からのものだった。凪人の引越しを手伝いに来てくれることになっていた。夜勤明けに行くと父が言った時、凪人は無理しないで良い、と断ろうとしたのだが、「息子の門出を見送らない訳にはいかない」とかなんとか冗談まじりに言われ、結局押し切られてしまったのだ。

 

 スマートフォンを床に置き、周りを見渡す。ワンルームマンションの一室にはそこらに大きなダンボールが散乱していて、その向こうにある開いた窓からは春の心地よい風が吹き込んでいる。これから行う荷解きにかかるであろう労力への懸念も、新しい何かが始まる予感と、新生活への高揚によって綺麗に拭い取られる。大学を卒業して一か月、凪人はこの春から都内の出版社で働くことになっている。小説家になる夢を諦めたわけではないが、生きていくためにはどうしたって働く必要があり、どうせ働くのなら文字に近い仕事をしたいということになったのだ。


 少し前に届いていたカーテンをレールにかけ、衣類をクローゼットに、食器は備え付けの棚にしまう。本棚は今度買う予定のため、持ってきた何冊かの本は日の当たらなさそうな部屋の隅へ、出来るだけ綺麗に積んでおく。

 そうして荷解きを進めしばらく経った時のことだった。もう七冊にもなるプロット帳や創作に使えそうなアイデアを記した手帳、小説の勉強をするために買った書籍などが詰め込まれたダンボールの底に、あるものを見つける。

 淡い水色をしたノートだった。四年前の夜、大切な人から受け取った一冊のノート。高校三年生から二年半の間、凪人はこれを、どこへ行くにも鞄に入れ持ち歩いていた。お守り代わりとして、あの日の景色を、気持ちを、決意を忘れないために。持ち歩くをやめた理由は、「大人」になるためだった。大学三年の夏、同じ大学に通う数人の友人とともに就職活動を見据えた企業の合同説明会に行った時のことだ。


 二百社以上が集まる大きな会場に赴いたときも、凪人の鞄の中には、そのノートがあった。各企業ごとにブースが分けられた、目が回りそうなほどに広い会場には、多くの学生たちがひしめき合っていた。スーツを着て、革靴を履き、革製の鞄を持った者、オフィスカジュアル然とした落ち着いた服装の者。名も知らぬ他の学生たちは、誰もが自分より大人びて見えて、そのたび自らがどこまでも小さな存在に思えた。企業に勤める社会人たちの話を聞いているときも同じだ。目の前に立って話している大人たちも、周りに座って聞いている学生たちも、はるか遠い存在のように感じられた。その経験は自らの無知と未熟さを知らせると同時に、社会で働くということの現実味をより一層強いものにした。帰りの電車に揺られているとき、隣で寄りかかって寝ている友人を横目に、凪人は「大人」というものについて考えていた。

 そうして帰宅した後、凪人はクローゼットから箱を取り出し、その中にノートをそっとしまいこんだ。卒業証書や卒業アルバム、作文コンクールの賞状など思い出の品が入ったダンボール箱を閉じるとき、凪人の胸にあったのはとてつもない哀愁と、ある種の決意だった。「大人」というものが何なのか、凪人には分からない。だが確かなことは、自分は否が応でも「大人」にならなければならず、自立することが必要なのだということだった。彼女にすがるのはやめて、自分で立ち、歩く力を身につける。それこそが今の自分には必要なことなのだと思ったのだ。


 突然鳴り響いたインターホンの音が、凪人を現実へ連れ戻す。父が到着したのだろう。

 ——あの日と比べて自分は一体、幾分大人になれただろうか。彼女を、正しく思い出にすることが出来ただろうか。手に持ったノートを眺めながら、そんなことを考える。

 

 寂しさ、不安、慕情。それら全ては彼女がいなくなったあの日から、少しの表情も変えず凪人の胸の中に存在していて、一瞬たりとも完全に消すことは出来ないし、そうするつもりもない。

 きっとこの先の人生でも到底耐えられそうにない出来事や別れが何度も訪れる。そのたび壊れそうになって、消えてしまいたくなって、たまには世界に絶望したりして。そうしたことを何度も繰り返しながら、生きていくのだろう。今でも彼女に会いたい思ったり、どうしようもない孤独感に苛まれるときだってある。

 

 ――それでも、と今は思う。それでも今は、彼女が守りたかったこの世界で、もう少しだけ生きてみよう。彼女のためにも、自分のためにも。凪人は静かに笑うとノートをそっと置き、玄関へ向かうのだった。

 ここまで読んでくださり本当にありがとうございました。

「月明かり —今日も、それでも生きていく—」は、これにて完結になります。

 小説を完結させるのは初めてのことで、表現方法からエピソード、情報の取捨選択。はたまたデータが消えてしまったりと正直大変なことも多々ありましたが、小説というものはどこまでも奥深く、執筆は苦しさ以上に楽しいものだと感じました。

 新しい物語を書くため構想中の現在ですが、またお会いできればと思います。

 拙い文章でしたが、ご意見ご感想等いただければ幸いです。高評価ももしよければお願いします。

 ではまたの機会で!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ