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第十五話 願い  ——入日凪人

 月明かりと、スマートフォンのライトを頼りに真っ暗な獣道を下り始め、どれほどの時が経った頃だったか苦労しながらも、ようやく神社の境内までたどり着いた。

 頭は依然として回っていないながらも安堵のため息をつく。スマートフォンをもう一度取り出すと、冷たい光が凪人の顔を仄かに照らす。さすがにここまでくると、既に電波は届いているようだった。ロック画面をみて、いくつかの通知の中に、何通もの不在着信通知が入っていることに気づく。顔認証によってロックが解除され、着信元の名前が表示されたとき、凪人は少しだけ驚いた。何度も電話を掛けてきていたのが、父親であるということに気が付いたからだ。父親とは普段、メッセージアプリで連絡を取っており、このように電話を掛けてくることは非常に珍しいことだった。折り返そうとも思ったが、何となく気が乗らず、スマートフォンをポケットに戻す。


 境内の階段を下った先には、いつもと何ら変わらない街があった。切れかけて点滅している街路灯も、足の錆びついた郵便ポストも、夜の透き通った空気でさえも、何もかもが当たり前に存在していて、そのことが今日起こったすべての出来事は単なる夢だったのでないかという思いを更に強くさせる。

 もう少しで自宅だ。民家の角を曲がると、いつも通りの自宅が見える。

 しかし、いつもとは異なる点がひとつだけあった。窓から、暖かな光が漏れ出ていたのだ。出てくるときに電気を消し忘れたのか、そうも思ったが、リビングや玄関の電気をつけたような記憶はなかった。であれば、考えられる可能性はひとつ、父親が家にいるというものだ。なんだか狐につままれたような気がして、これもまた夢なのではないかと思えてくる。

 玄関の前に立つ。どうしてか、少しだけ緊張する。小さく息を吐く。ドアノブに手をかけ、引いてみる。鍵は開いている。静かに音を立て、ドアが開く——。


 リビングから物音が聞こえ、飛び出してきた父親と目が合った。この時間の自宅に父親がいるという現実感のなさに、少しだけ居心地が悪い。

「どこ行ってたんだ。こんな時間まで」

 その言葉に対し、凪人はどう言ってよいかも分からず黙り込んでしまう。どこに行っていたか、そのことは自分でさえも、半分わからないようなものなのだ。父親は真剣な、怒ったような顔で、さらに言う。

「電話も出ないし、何してたんだ」

 

「……ちょっと出てただけだよ」

 それだけ言って靴を脱ぎ、目を合わせないように横を通り過ぎる。

「待てよ」

 その言葉とともに肩を掴まれたとき、凪人の胸中に思いもよらない感情が湧き上がってくる。

 ――ないでよ。気づいたときには、その激情を形のままに吐き出していた。

「今更、父親みたいなこと言わないでよ」

 それだけ言うが、肩を掴んだ手は離されない。

「仕事ばっかで、ずっと家にもいなかったくせに。碌に話も聞いてくれなかったくせに。こんなときだけ父親面するなよ!」

 

 ――すぐに何か言い返されるだろう。もしかしたら殴られるかもしれない。そう思い少し身構える。しかし、父親の反応は思っていたものとは違った。

 肩に置かれた手が離れ、息を切るような音が聞こえる。振り向くと、あんなに怒った顔をしていた父親が、今度は泣いていた。

「ごめん……な。今まで……本当にごめんな」

 後ろから強く抱きしめられる。嗚咽の中に、途切れ途切れの声が混じる。

「母さんが死んで、どうしたら良いか、どうするべきか……分からなくて。こんな……こんな父さんで……」

 父の泣いている姿なんて、これまでに片手で数えられるほどしか見た事がなかった。確か、最後に見たのは、母の一周忌だったと思う。父が家にいることも、こうして背中で泣いているのも、どこか現実味に欠けて感じられる。どうして良いか分からず、目を合わせることも出来ず、凪人は俯き、気がつくと泣いていた。


 それから、父と二人リビングのソファに座って話をした。父と、まともに会話をするのは何年かぶりのことであり、上手く話せるか、会話が滞ってしまうのではないかと、最初の方こそ一抹の不安を抱えていたものの、いざ話し始めてみると心の中に浮かんできたのは想定外の感覚であり、それは安堵だった。

 会話は父から、今までのことに関する謝罪に始まり、今後のことへと移り変わっていった。母を亡くしてからというもの、凪人には何を考えているのか全く分からなくなっていった父だったが、それはあちらからしても同じようなもので、母の死を受け入れることが出来ず、家族との向き合い方も分からなくなってしまい、現実から逃避するように仕事ばかりに打ち込むようになってしまっていたということだった。今後はきちんと早くに帰宅すること、また進路や色々なことについても対話をしたい、もっと色々なことを共有して一緒に考えていきたい、という話だった。

「でも、どうして急にそんなこと言い始めたの」

 凪人はそう父に問う。父の中には今までも葛藤はあったのかもしれないが、このタイミングで関係を修復しようと動き出した理由が気になったからだ。

「え、ああ。夢で母さんに叱られてな。『あんたがこんなことでどうするの』って」

「そっか」

 凪人はそう言うと、リビングを出た。父とこうして普通に話が出来たことに、未だに現実感が持てない。それに、今日あったことだって、とても現実の出来事とは思えない。もしかしたら、自分は今でさえも、夢を見ている途中なのかもしれない、そんな推論だけが現実味を強くする。


 目が覚めれば、いつも通りの天井があって、いつも通りの朝が始まって、学校には水坂がいて、琴葉がいて、また些細なことで笑ったり、悩んだりするのだろう。

 そんなことを考えながら自室のドアを開く。カーテンの締め切られた室内は夜の闇に黒く塗りつぶされていて、何も見えない。すぐに入り口横のスイッチを手で探り、ボタンを押す。天井の古くなった蛍光灯は一瞬だけ点滅すると、明かりを灯す。


 

 明るくなった部屋をぼんやり見回す。本棚に整えられた小説も、勉強机の上に積まれたノートも、褪せた置き時計も、記憶の通り、きちんとそこにある。

 

 ふと、ベッドの上に置かれた一冊のノートが目に入る。夢じゃない。心が叫ぶ。視界が涙に覆われていく。そうだ、これは夢じゃない。今日の学校でのことも、さっき父と話したことも、琴葉のことも。全部が現実に起きたことで、明日の朝、起きて学校に行っても、きっと琴葉は居ない。いま目の前にある、あの日、彼女に託された一冊のノートが、その何よりの証拠だった。

 

 凪人はノートを手に取り開く。ページの間から、何かが落ちる。それは一封の淡い桃色をした封筒だった。拾い上げると、表に宛名として、端正な文字で「凪人くんへ」と書かれている。何となく、封筒を破らないよう慎重に開く。中に入っていたのは、丁寧に折りたたまれた一通の手紙だった。


 

 

  凪人くんへ

 何から書けば良いかとても迷ったのですが、やっぱり最初は謝っておきたいと思います。

 突然いなくなってしまって本当にごめんなさい。凪人くんのことだから、きっとすごく心配してくれてると思います。もしかしたら、もう探してくれたあとかもしれませんね。それを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、だからこそ、凪人くんがこの手紙を読んだあと、私を探さなくても良いように、これを書こうと決めました。

 

 凪人くんがこれを読んでいる時、私はきっともう、この世界にいません。ドラマみたいな表現だけど、比喩でも何でもなく本当にいないのです。だから、私はもう学校にも行けないし凪人くんに会うことも出来ません。

 理由を言わないのは本当に勝手だと思います。ごめんなさい。でも知っておいてほしいのは、これがわたし自身の選択だということです。決して誰かに強要されたわけではないので、どうか心配しないでください。

 話は変わりますが、私にはまだ、凪人くんに伝えておきたいことがあります。まずは、お礼からです。

 凪人くん。今まで本当にありがとうございました。家のこと、これからのこと、色々なことで悩んでいて、クラスの皆とも上手くいってなくて、塞いでた私を連れ出して、色々なものを見せてくれて、仲良くしてくれて。あの日、凪人くんが声をかけてくれなければ、高校は私にとって最後まで辛い場所だったと思います。

 思い返してみれば出会った時から、私は凪人くんに助けられてばかりでした。初めて話したのは、小学生の頃でしたよね。お母さんを亡くしてしまったばかりで本当に苦しそうにしていた凪人くんを今でも覚えています。

 あの時、私が声をかけたことに凪人くんは「ありがとう」って言ってくれたけれど、実はそれは私からしても同じことでした。話したことがあるとは思いますが、私にもお母さんがいません。お母さんがいなくなったのは物心がつくかつかないかくらいの頃だからあまり覚えていないのですが、苦しんでいる凪人くんを自分と重ねたんです。この人ならきっと私のことを理解してくれると思ったんです。だから凪人くんと仲良くなれて、一緒に遊んだりできて、本当に嬉しかったです。

 中学にあがって、私が学校を休みがちになってからも凪人くんは傍にいてくれて。途中で私が凪人くんを避けるようになったこと、多分気づいてたよね。理由も言わず避けるなんて、本当に傷つけてしまったと思います。ごめんなさい。でも、凪人くんが嫌いになったとか、そういうわけじゃないんです。あの時には私、どうしたって最終的にこうなるって分かってたから、どうせ居なくなるなら凪人くんの人生に影響を与えるようなことはすべきじゃないって思ったんです。だから、顔を合わせると色々なことを話したくなっちゃうから、極力見えないフリをして過ごすようにしてたんです。

 それなのに凪人くんは、高校に入ってからもこんな私に優しくしてくれて。だから、凪人くんには本当に感謝しかありません。

 

 最後になりましたが、一番伝えたかったことを、これから書きます。

 私は凪人くんが好きです。凪人くんが自分のことをどう思っていても、私にとっての凪人くんはずっと、強くて優しい、憧れの人でした。

 こんな言い方は大袈裟だと思うかもだけど、私がここまで生きてこられたのも、この世界のことを本心から好きだと思えたのも、全部凪人くんのおかげです。

 昔、一緒に読んだ本を覚えていますか?確か小学五年生の頃だったかな。女の子と勇者が出てくる、あのお話です。女の子を悪者から守ってくれて、ピンチになった時には必ず助けてくれる優しくてかっこいい勇者。私にとって凪人くんは、そんな存在でした。

 だから、この先の未来で何が起こったとしても、凪人くんは絶対に大丈夫だと思います。

 この先も、人一倍責任感の強い凪人くんだから沢山悩んで、迷うこともあると思います。でも、凪人くんがどんな道を選んでも、私は必ず凪人くんを誇りに思って応援しています。

 私のことも、このと手紙も、辛かったことも、全部まとめて忘れてしまって構いません。だから、どうか幸せに、元気に生きてください。

 今までありがとう。さようなら。




 瞳からあふれた一滴の雫は頬に一筋の線を描く。落ちた雫が紙面にいくつかの小さなシミをつくったころ、凪人はようやく涙を拭う。目頭は熱く、肩は無意識に震える。足から力が抜け、膝から崩れ落ちる。どうしてよいか分からず、どうすることも出来ず、ただ両手で手紙を胸に当て、強く抱きしめていた。

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