第十四話 こんなに素敵な世界なら ——入日凪人
進むうち、水の冷たさにも段々と慣れてきた。歩くたびに水面は波立ち、反射した星空が揺れる。上を向いても、下を向いても星空が広がっていて、なんだか夜空の中を歩いているようだと、凪人は思う。気が付けば、「あの人」の姿はどこにも見当たらない。向かう先の大木の下に、暖かい光が揺らめいているのがみえる。もう少し、あと少しで、彼女に会える。
「琴葉……」
大木の陰に、彼女はいた。地面に置かれた蝋燭の灯りに照らされた彼女は白装束を身にまとい、大木に向かって正座している。膝元には、食べかけの果実がひとつ、置かれていた。
「琴葉!」
湖から上がった凪人は、もう一度、声を大きくして名を呼んだ。
「凪人くん?」
彼女は振り返るもことなく言う。
「どうして来たの?」
考えもしなかった質問に、凪人は少しだけ戸惑う。
「どうしてって、探しに」
「来ないで!」
凪人が近づこうとした時、琴葉が大きな声を出した。いつもとは違う琴葉の様子に、凪人は思わず立ち止まる。
「そんな、探してほしいとか頼んでない!」
胸中がめちゃくちゃになり、瞳の奥で涙がこみ上げるのを感じる。琴葉も泣いている。顔は見えずとも震える肩に、漏れ出る嗚咽に、彼女が抱えているものの大きさが、どれほどの葛藤を抱え、ここにきたのかが手に取るように分かる。
「ごめん……ごめんね」
彼女の絞り出すような声が、嗚咽の間に聞こえる。凪人はぐちゃぐちゃの感情を抑えつつ、出来るだけ落ち着いた、柔らかな口調で言う。
「とにかく、帰ろう。一緒に」
琴葉からの返事はなく、静かな泣き声だけが聞こえていた。
「ごめんね。私、帰れないんだ」
しばらくして落ち着きを取り戻した琴葉は、そう言った。
「決めたの。守るって」
「守るって、何を?」
凪人は追いつかない思考の中、浮かび上がった疑問を絞り出すように口にする。
「えっとね。未来、って言えば良いのかな」
大それた言葉も、今日の琴葉が言うと噓のようには思えない。答えを聞いてなお、凪人には全くと言って良いほど事の全容が理解できない。
「えっと、突然こんなこと言われても分かんないよね。ここまで来ちゃった凪人くんには言っても大丈夫だと思うから、話すね——」
琴葉は、そう前置きしたうえで話し出した。
以前から度々遭遇することのあった化け物は「訪根人」と呼ばれていること。訪根人は現世の生き物ではなく、特定の道を辿って現世に上ってくるのだということ。道は、普段は巨大な岩によって封印されているということ。その封印は不定期に弱まることがあり、その時期に訪根人は現世に姿を現してしまうということ。訪根人は現世を訪れ時間が経つと、理性をなくしてしまうということ。そうした訪根人は荒ぶる神となり、現世に様々な災厄をもたらしてしまうということ。琴葉の一族は古来より、そうした訪根人を、本来いるべき場所へ送り返すことを生業としていること。道を塞ぐ巨大な岩による封印を取り戻すためには、一族で最も適している者が「ある場所」へ赴き、自らを贄としてささげる必要があるということ。
「それでね、その『ある場所』っていうのが、此処なんだ」
琴葉の言葉に思考が一瞬にして止まる。
「だから、私は帰れない。……本当はこういうことって、あんまり他の人に話すべきじゃないって言われてるんだけどね」
妙に明るい口調で話す琴葉を見つめながら、凪人は更に混乱する。意味が分からない。将来を守るために誰かが犠牲にならなければならないということも、その犠牲が琴葉でなければならない理由も、何ひとつ納得できない。だいいち未来を守るために贄が必要だなんてこと、現実にあるのだろうか。単なる因習に過ぎないのではないだろうか。そんな考えも浮かんだが、化け物と対峙したという事実と現実離れした周囲の風景が、一瞬にして掻き消した。とにかく今は、琴葉を連れ戻す方法を考えるしかない。将来のことも、化け物のことも、琴葉を連れ帰った後で考えれば良い。そう思い、琴葉を説得する方法を考えるが、どこか言い訳のような言葉しか思い浮かばない。
「それなら……それなら琴葉の気持ちはどうなるんだよ。小説は? 夢だったんじゃないの?」
「もう良いの」
もう良い? そんなはずはない。琴葉は今までずっと努力してきたはずなのだ。自分が勝手に挫折して諦めようとしている間も、琴葉は将来の夢から逃げることもせず向き合ってきたはずなのだ。世界を守るために、その夢を投げ打ってまで犠牲にならなければいけないなんて理不尽なこと、あって良いはずがない、そう凪人は思う。
「私ね、本当はずっと迷ってたんだ。どうして誰かが犠牲にならないといけないのかも、その誰かが私じゃないと駄目な理由も分からなかったから。それに正直に言うと、そんな犠牲を払ってまで守るだけの価値が、この世界に本当にあるのかも分からなかった。どうせ居なくなるんだから、誰かの人生に影響を与えないように、誰ともかかわらないまま消えようって思ったこともあったし、この先も同じことで苦しむ人が出てくるのなら、いっそのこと私の番で全部終わらせようって考えたこともあった。……でもね——」
凪人は何も言うことが出来ず、ただ黙って琴葉の声だけに集中する。
「私がクラスで浮いてるの分かってるのに、凪人くんは仲良くしてくれるし、水坂くんも優しくしてくれて、すごく嬉しかった。私も学校にいて良いんだ、誰かと関わっても良いんだって思えたの」
「だったら一緒に——」
一緒に帰ろう、そう言いかけた凪人だったが、すぐに遮られてしまう。
「でも、だからこそね、守りたいって思えたの。こんなに素敵な世界なんだから、守るだけの価値はあるって、そう思えたんだ」
「それなら……それなら俺は、これからどうすれば——」
そんな言葉が凪人の口をついて出る。自分でも勝手なことを言っているというのは分かっている。琴葉も長い間悩んできて、やっと導き出した答えなのだ。それなのに、こんなことを言うのはエゴでしかない。分かっていても、凪人は言わずにはいられなかった。前を向けたのも、もう一度小説を書こうと思えたのも、琴葉のおかげなのだ。この先で何が起こっても、琴葉さえ居てくれたら、乗り越えられるはずだと、本気で思っていたのだ。それを今更、急にいなくなるだなんて。鼓動がさらに高まり、息が苦しくなる。前は、涙でほとんど見えない。琴葉は笑って言う。
「もう、凪人くんってば。泣かれたら、私もやりづらくなっちゃうじゃん」
凪人が涙を拭い、琴葉に近づこうとした時だった。足が動かない。違和感を感じて見ると、足首が泥に塗れた何かの冷たい手によって掴まれていた。
「ごめんね。急がないと、そろそろ帰れなくなっちゃうから。それに、凪人くんにだけは、私のこんな顔、見られたくないから」
足元の地面から、女が這い出てくる。驚いて離れようとするが、足首は依然として地面から伸びた手に掴まれており、動けない。振りほどこうとしてバランスを崩し、思わず尻もちをつく。直ぐに立ち上がろうとするが、腰が抜けたのか、上手く力が入らない。間髪入れずして、地面から這い出た女が、凪人を捕まえ、肩に担ぐ。華奢な体からは想像も出来ないほど力は強く、凪人にはどうすることも出来ない。
「今までありがとね。私、本当に幸せだったよ」
琴葉がそう言うのと殆ど同時に、凪人を担いだ女が宙に浮く。
――バイバイ凪人くん、元気でね。
次の瞬間だった。女は一気に上空へと舞い上がる。
「琴葉!」
そんな叫びも虚しく、女は凪人が初めに来た方向へと物凄い速さで進み始めた。目の前にあったはずの巨木が、渡ってきたはずの湖が、苦労して抜けたはずの森が、みるみる小さくなっていく。視界が再び歪んでくる。瞳から零れた雫は、空を舞い落ちていく。高度のせいか、嗚咽のせいか、息が苦しくなる。琴葉が、離れていく。
果てしない夜空のなか、凪人は気がつかないままに気を失っていた。
――凛とした虫の音に目を開けると、そこには一面の夜空が広がっていた。冷たくも柔らかな風が頬を撫で、木の葉の揺れる静かな音に、自分が山の中にいるのだと気づく。目頭が熱い。まだ寝ぼけ気味の体を無理やりに起こすと、目の前には巨石がひとつ、月明かりに大きな影を伸ばしていた。
ここがどこで、今まで何をしていたのだったか。考えた途端、激しい喪失感がこみ上げる。自分は先ほどまで、気が遠くなるほど長い坂道をどこまでも下っていった先にある不思議な場所で、大切な、大好きな人と一緒にいたのだ。しかし今、そこに通じる坂道があったはずの場所には、大きな岩が静かに佇んでいる。
立ち上がり、指先で岩肌に触れると、冷たく硬い感触だけが伝わってくる。試しに両手で押してみるが、岩が動く気配は全くない。封印、贄。彼女の言葉が思い起こされる。にわかには信じられない記憶を辿りつつ、今までのことは全て夢だったのではないかと、ぼんやりと思う。
ポケットを探り、スマートフォンを取り出す。幸いなことに、バッテリーはまだ生きていた。画面右上には「圏外」の文字があり、時刻は0時半と表示されている。とにかく今は、帰らなければ。




