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第十三話 あの人の影を追って  ——入日凪人

「ことちゃんのこと、お願いね」

 自宅に着き、中へ入ろうとしたときのこと。背後から声が聞こえた。いつか、どこかで聞いた、優しい声だった。

「琴葉?」

 振り返って見えた()()に、凪人は呼びかける。()()はもう一度、声を出す。

「ことちゃんのこと、お願いね」

 何か様子がおかしい。そう思って涙を拭うと、歪んでいた視界は鮮明になる。そこに立っていたのは、あの化け物だった。自宅前の路上に立ち、街灯に照らされながら凪人をただ見つめている。

「は、や、く」

 化け物はそう言うと歩き出した。


 ——考える間もなく、凪人は化け物の後を追っていた。凪人が追いつきかけると、化け物はさらにスピードを上げる。凪人はそれを追いかける。段々と鼓動は高まり、息は上がってくる。脇腹が鈍く痛むが、それでも凪人は走り続ける。

「ことちゃんのこと、お願いね」

 この言葉をどこで聞いたのか、凪人は突然思い出す。打ち上げの夜にみた夢? 違う。あの夢は確かに、実際に起こった出来事の記憶だった。そう、あれは小学生の頃、琴葉と親しくなってしばらくしてのことだ。あの時、小説に夢中だった頃、二人でよく遊んでいた公園に、「あの人」は琴葉を迎えに来たのだ。そして別れ際、あの言葉を言い残した。「あの人」は確か、琴葉の姉だったはずだ。優しくて強くて、何でも知っている、琴葉自慢の「お姉ちゃん」。いつも二人でいる自分たちを心配してか、はたまた家の事情を知っていたのか、何度か一緒に遊んでくれたこともあった。それなのに、どうして今まで忘れていたのだろう。

 とにかく、今できることは「あの人」の背中を追いかけることだ。彼女は、きっと琴葉のもとまで導いてくれているのだ。あの時は理解できなかった言葉の意味も、今ならば理解できる。琴葉を、必ず助け出して見せる。


 「あの人」を追ってたどり着いたのは、花火大会の日に訪れた神社だった。鳥居をくぐり石段を駆け上がる。日もすっかり落ち、夜の闇に包まれ始めたこの場所の視界は劣悪で、聞こえるのは草木が風に踊る音と激しい息遣い、足音だけだ。境内まで階段を上り、本殿の横を抜け、今度は山道に入る。道に敷かれたひび割れの激しい石畳は苔むしていて、隙間からは所々雑草が顔を出している。踏み込んだ地面がふいに滑り落ち、こけそうになる。崩れた石畳のかけらが斜面を転がり落ち、林の中へ消えていく音が聞こえる。その様子を見ることも、それに怯む暇もなく凪人は走り続ける。もしも、「あの人」を見失うことがあれば、それこそ一巻の終わりだ。

 粗末な石畳も次第にまばらになっていき、ついには土だけの、獣道ともいえるものに変化する。痛い。道の裾からはみ出した小枝に、ふくらはぎを擦りむく。夕方から酷使し続けた足が悲鳴を上げる。息は苦しく、肺が痛む。それでもなお、走り続ける。気が付くと、「あの人」は遥か前方にいる。まずい。このままでは見失ってしまう。


 「あの人」の姿を見失ってなお走り続け、どれほどの時間が経っただろうか、ようやく獣道の終着点に辿り着いた。一切の植物が生えていない三十メートルほどの広場に、「あの人」はひとり立っている。空を木々によって閉ざされていないためか、月明かりによるものなのか周囲は少しだけ明るい。「あの人」のさらに向こう、広場の真ん中あたりに巨大な黒い影のようなものが見える。

 近づくと、「あの人」は巨大な影に向かって歩き出した。そうして影の中に入っていく様子を見て、凪人は初めて、影だと思っていたものが巨大な穴だったということに気がつく。神隠し、この言葉が脳裏を過る。このまま進めば、自分はもう戻ってこられなくなるのかもしれない。そんな気がして竦みかけた足を、無理やりに進める。この先に、琴葉がいるかもしれないのだ。怖がっている暇はない。このまま琴葉を失ってしまうことの方が、自分にとっては何倍も怖いのだ。凪人は決意のもと、巨大な穴に足を踏み入れた。


 入ると、そこは鍾乳洞のようだった。空気はひんやりと冷たく、天井から垂れ下がった氷柱状の岩からは、雫が滴っては水溜まりへ落下し、一定の間隔で木琴のような澄んだ音を響かせている。外界の光は一切届いていないはずなのに、ここはほんのりと明るい。正面に立ちはだかる岩壁は切り裂かれたかのように両断されており、その間に下り坂が続いているのを見つける。

 「あの人」を追い、凪人は下っていく。湿った岩の地面は、お世辞にも歩きやすいとは言えず、気を抜けば足を滑らせてしまう。何度か転びそうになりながら、時おり尻を滑らせるように進みながら、凪人はどこまでも下っていく。このまま地球の反対側まで続いているのではないかと思うほどに下り坂は長く、先も見えない。入り口で聞こえていた水の滴る音も、気づけば完全に消えている。風も吹かない無音の空間に、凪人は急に心細くなる。寒い。怖い。寂しい。

 

 ——私ね、分からなくなったの。もう長くは続けられないだろうけど。

 花火大会の日、琴葉が言っていたことを思い出す。あの日、琴葉は確かに、小説を長くは続けられないと自分に言ったのだ。それはきっと、今日という日を見越しての発言だったのだと、今更のように思う。

「琴葉」

 凪人は呟くと、また一歩踏み出す。琴葉に会いたい。彼女に聞きたいことや伝えたいこと、話すべきことが、本当にまだ、沢山あるのだ。


 

 気の遠くなるような坂道を下り続け、どれほどの時が経ったころだったか、地面が岩肌から土へと変化していることに気が付いた。次の瞬間、心地の良い風が吹き、それと共に草木の瑞々しい香りが舞い込む。前方から光が、静かに差し込んでいる。出口だ。凪人は歩調を速め、光に向かって進んでいく。

 洞窟を抜けると、そこには草原が広がっていた。明け方のような、昼とも夜ともつかない空の下、繁茂する草や花には朝露が輝いている。澄んだ風が吹き抜け、草に覆われた大地が波立つ。ふいに、甘い香りが風に乗り漂ってくる。桃だろうか、草原のなかに果実を実らせた木が一本だけ立っている。揺られた葉からは露が零れ、星空と朝焼けを反射させながら土の上へと落ちていく。神秘的でいて、どこか懐かしい。そんな景色の中を「あの人」は進んでいく。凪人は深呼吸をすると、また走り出した。


 草原は次第に、竹林へと移り変わった。空が生い茂る竹によって閉ざされ、光は届かない。吹き込んでくる風は思いのほか、先ほどよりも冷たく湿っているように感じる。薄暗く、薄気味悪い林の中を走っていると突然何かに足が引っかかる。そのまま派手に転び、落ち葉の上に倒れこむ。顔を上げ、振り返ると、小さな筍が地面から顔をのぞかせていた。膝に違和感を感じて見ると、学生服の長ズボンに血が滲んでいる。急に鼓動が激しくなり、息が苦しく吐きそうになる。目の奥に涙が溜まるのを感じる。また澱んだ風が吹き、竹林が音を立てて揺れている。どうしてこんなことに、凪人はそう思う。

 ——大丈夫? 立てる?

 琴葉の声がまたひとつ、思い出される。凪人は立ち上がる。今日という日が訪れることを、彼女がずいぶん前から知っていたとして、一体どれほどの葛藤を抱えてきたのだろう。笑った顔、困った顔、泣いている顔、琴葉の色々な表情が思い起こされる。こんなところで泣きべそをかいている場合ではないのだ。


 それからいくつかの小川を渡り、丘を越え、葡萄の木を過ぎ、森を抜けたときのことだった。突然、(ひら)けた場所に出て立ち止まる。どれほどの広さだろう。空漠とした湖がはるか向こうまで広がっていて、凪いだ水面は一面の星空を映し出している。そして、その中央には大木が枝を広げ、そびえたっているのがみえる。あそこに、琴葉がいる。これといった根拠もなく、凪人そう思う。

 渡れるだろうか。湖に足をつけてみる。凍り付きそうなくらいに冷たい。一瞬足を引っ込めそうになったが、そうも言っていられない。思い切って踏み込んでみると、水底の土の感触が、すぐに伝わってきた。深さは足首の少し上くらい。大丈夫、これなら渡れる。確かめると、もう一方の足も踏み入れた。

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