第十一話 蜃気楼 ——入日凪人
「来ないね」
いまは昼休み、学校の屋上で水坂と二人、金網フェンスにもたれかかり座っている。いつもなら琴葉も来て三人で昼食をとることになっているのだが、今日は昼休みを半分も過ぎても、琴葉が現れる気配はなかった。
「これで六日か。でもまあ、今までも休むこと多かったんだろ」
水坂は一面のうろこ雲に覆われた空を見上げながら答える。
「それはそうだけど……」
「連絡は? 取ってるんだろ」
「それが——」
水坂に訊かれ、凪人は答える。あの打ち上げ以来、琴葉は二人に顔を見せていなかった。打ち上げをしたのは先週、木曜日のことで、今日は水曜日。つまり、土日を引いたとしても琴葉は四日間も学校に来ていないことになる。この間にも凪人は琴葉とメッセージでやり取りをしていたのだが、日曜日の夜を最後に返信が来なくなってしまったのだ。
「まじかよ。それはちょっと心配だな」
「うん。もしかしたら……」
凪人はそこまで言って口ごもる。もしかしたら、あの化け物のことで何かあったのかもしれない、と思ったのだが琴葉との約束の手前、水坂に言うわけにはいかなかった。
「そろそろ食うぞ。五限の古典って小山だろ。あいつ、遅れるとうるさいからな」
水坂は、そう言って弁当の包みを開ける。
連絡が取れない以上は、どうしようもない。化け物のことも、きっと考えすぎだ。凪人は自分に言い聞かせ、購買で買ったサンドイッチの袋を開けるのだった。
間もなくして午後の授業が始まった。五限が終わり、休み時間を経て六限が始まる。教壇の上では数学の男性教師が心底つまらなさそうな様子で、訳の分からない数式を黒板に書き込んでいる。いつも通り。そう、いつも通りの時間が、この場所では当たり前のように流れている。熱心にノートをとっているクラスメイトも、机の下に隠したスマートフォンを触っているクラスメイトも、机に突っ伏して昼寝しているクラスメイトも、いつも通りの光景の一部として溶け込んでいる。そんな様子とは対照的に、凪人は頬杖をつき、どこか落ち着かない様子で窓の外を眺めていた。自分の考えすぎだ、何度か心の中で復唱してみるが、どうにも嫌な予感がして仕方がない。こんなことをしている場合ではない、そう思う。
長かった午後の授業が終わり、掃除をしたのち、凪人はようやく解放された。帰り支度を終え二組を覗いたものの、やはり琴葉の姿はなかった。
学校を出て水坂と歩く。彼女が委員会の集まりでいないとかで、今日は水坂と帰ることになったのだ。
「なあ、結局進路はどうすんだ?」
「ん、進路? この前いったばっかじゃん」
水坂の思いもよらぬ質問に、凪人はそう返す。
「聞いてねえよ。いつ言ったんだよ」
「え、打ち上げの時だけど」
「打ち上げ? いつの、何の打ち上げだよ」
水坂による質問攻めに、凪人は少しの不快感を覚えつつも答える。
「は? 打ち上げっていえば琴葉のしかないだろ」
「琴葉? 琴葉って何だよ」
「何って、琴葉は琴葉だよ。月波琴葉。二組の」
「誰だよそれ。そんなやついたか?」
——ありえない返答に、思考が止まる。二学期になってからは毎日のように三人で過ごしてきて、打ち上げまでしたのだ。それに、今日の昼休みに琴葉のことを話したばかりだ。水坂が琴葉を知らないなんてことは、覚えていないだなんてことは、絶対にありえない。水坂は何か、笑えない冗談を言っているのだ。それしかありえない。
「お前、大丈夫かよ」
「そっちこそ、受験勉強でおかしくなったんじゃないの?」
水坂に言われ、反射的に言い返してしまう。水坂をみると、心配そうな様子でこちらを見つめていた。
「冗談じゃ、ないの?」
すがるような思いで水坂に訊くが、真面目な顔で首を横に振られてしまった。
それからしばらくは無言で歩き、互いの帰り道が別れる地点まで来てしまった。水坂は最後まで琴葉のことを知らないといった様子を貫いていた。心配した水坂による家まで送ろうかとの提案を断り、凪人はひとりで家路についた。
いつも通りの、誰もいない自宅。凪人は自室のベッドに腰を掛ける。水坂は、きっとふざけて冗談を言っているのだ。それか、受験のストレスでおかしくなってしまったに違いない。でなければ琴葉のことが分からないなんて、ありえない。
そうだ、と思ってスマートフォンを取り出しメッセージアプリを開く。ここに、琴葉の名前があるはずだと思ったからだ。琴葉の名前があることを確認できれば、水坂が間違っているということの動かぬ証拠になる。
——結果として、琴葉の名前を見つけることは出来なかった。それどころか友だち欄にも、メッセージ履歴にも、琴葉に関するものは何ひとつ見当たらない。まるで初めから存在していなかったかのように消えている。
ここにきてようやく、凪人はもうひとつの可能性を考えはじめた。間違っているのは水坂ではなく、自分だったのだという可能性だ。水坂の言った通り、自分がおかしくなってしまったのだ。きっと疲れているのだ。そうでなければ今の状況について、説明がつかない。この状況が、何よりの証拠なのだ。
学校でのことも、化け物のことも花火大会のことも、すべて自分の妄想だったのだ。夏休みのことも、図書館でのことも。——小説のことも。
その時だった。凪人は今まで考えていた、すべて妄想に過ぎなかったとの可能性に対して、突如強い反発感を覚える。小説、そうだ小説だ。母親がいなくなり、どうしようもなく塞ぎ込んでいた自分に手を差し伸べてくれたのも、小説の世界へ連れ出してくれたのも、目指すものを与えてくれたのも再び前を向いてみようと思わせてくれたのも。いつも助けてくれた人、助けたいと思った人、生きる意味をくれた人。今までの人生において幾度となく、自分を救ってくれたのは紛れもなく彼女、月波琴葉だった。誰が何と言おうと、たとえ自分がどれほどおかしくなろうと、これだけは絶対の自信を持って言えることだったはずだ。
急に思い出し、急いで立ち上がり本棚を探る。あった、これだ。凪人が取り出したのは一冊のノート。打ち上げの日に琴葉から渡された、あのノートだった。
「勝手に見たら駄目だからね」
――琴葉の声が、鮮明によみがえる。あの日、彼女は確かに、自分の目の前にいたのだ。確信すると、安堵と焦燥感を胸に、凪人は家を飛び出した。




