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第十話 夢の続き  ——入日凪人 

「かんぱーい!」

 凪人の音頭で、三つのグラスがぶつかり心地の良い音を立てる。

「まあ、ジュースなんだけどね」

 オレンジジュースが入ったドリンクバー用の安っぽいグラスを片手で揺らしながら、琴葉がそう言って控えめに笑う。

「そんなことよりもすごいな月波。新人賞だっけ、応募するんだろ」

 凪人の隣で、水坂が言う。

 夏休みも明け、次第に暑さも和らぎ山々が朽葉色(くちばいろ)に染まり始めた頃、長らく構想を練っていた琴葉の小説が遂に完成した。琴葉は新人賞に応募するつもりらしく、今日は完成を祝うために自宅近くのファミリーレストランでささやかな打ち上げをすることになったのだ。凪人の提案で、二学期が始まってからは休み時間を三人で過ごすことが多くなり、今日もいつもの三人で集まることとなった。

「別にすごくないよ。応募するってだけで上手くいくって決まったわけじゃないし。それに——」

 琴葉は謙遜しながら凪人の方をちらりと見る。

「凪人くんが手伝ってくれたおかげでもあるから」

「いやいや、琴葉はすごいよ。俺なんか全然、何もしてないし」

 凪人はそう言いながらも無性に嬉しくなる。小説の完成、その大半は琴葉の努力によるものだが、凪人の協力が助けとなったこともまた、紛れもない事実だった。どれだけ些細なものだとしても、琴葉の力になれているという実感が、凪人には何よりも嬉しいのだ。

「凪人くんのおかげだって。でなきゃ私、ぜったい完成させられなかったもん」

 笑顔で言っていた琴葉は、突然真面目な顔になる。

「他にも、いつも助けてもらいっぱなしで。——本当にありがとう、凪人くん」

 やけに改まった感謝の言葉に、凪人は何だか照れてしまい、何も言い返せなくなる。琴葉も急に恥ずかしくなったのか目をそらし、グラスを見つめている。

「なに、二人ってもしかして、そういう感じ? いつから?」

 おかしな空気に、水坂が水を差す。

「そんなんじゃないって!」

 凪人は慌てて言うと軽く咳ばらいをし、こう続けるのだった。

「と、とにかく! 今日は俺ら二人の奢りだから何でも好きなもの頼んで!」



 話題は新人賞のことから小説の内容に進み、途中に水坂の惚気話を挟んだのち、学校のことから卒業後の進路へと移り変わっていった。水坂は変わらず都内にある有名大学の医学部を目指しているとのことで、成績的にもこのまま何もなければ手の届く範囲だそうだ。凪人は水坂と同じく都内にある大学の、文学部を目指していることを二人に発表した。これは夏休みの間に思考を重ね、ようやく考え出した進路だった。模試の判定では少し危ういものの、このまま勉強を続けて点数を伸ばしていけば十分に届くとのことだった。

「月波は?」

 水坂が、話の矛先を琴葉に向ける。

「え、私? ……私は、大学とかはあんまり考えてないかな」

 琴葉は「ほら、家のこともあるし」と、どこか誤魔化すように付け加えるのだった。

 

 

「みんな忙しいのに、今日はありがとね」

「おう、じゃあまた明日な」

 自宅が一番近い水坂を見送ったあと、凪人と琴葉は二人で歩いていた。高く澄み渡った秋の夜空では、一点の欠けも見当たらない月が冷たくも優しく、辺りを照らしている。

「きれい」

 琴葉が月を見上げながら、そう呟く。

「ほんとだ。満月かな」

 何気なくそう返した凪人だったが、このやりとりが持つ別の意味について思い出す。琴葉も文学についてはよく知っているはずで、「月が綺麗」という言葉にまつわる有名な逸話を知らないはずはなかった。

「うん。満月だって。今朝のニュースで言ってた」

「そうなんだ」

 特に他意はなさそうな琴葉の様子に、凪人は自分が意識しすぎていただけなのだと猛省しつつ、さらに恥ずかしくなるのだった。


 それからしばらくは、互いに黙って歩いていた。他の人となら酷く気まずい沈黙も、琴葉とふたりなら心地よく感じられた。

「凪人くん」

 琴葉に突然名前を呼ばれ、空を見上げながら歩いていた凪人が琴葉の方を見ると、琴葉もまた、微笑を浮かべながら凪人を見つめていた。

「凪人くんは、将来が楽しみ?」

「……どっちかっていうと、楽しみかな。ちょっと前までは将来のことなんか考えたくもなかったけど、今はやりたいことも分かったし」

 琴葉がいれば、怖いものなんかないって思えるし——凪人は一度言いかけた言葉を、急いで飲み込んだ。

「そっか。良かった」

「琴葉は?」

 凪人が訊き返すと、琴葉は一呼吸おいたあとで言った。

「私はね、いまが一番楽しいよ。凪人くんに水坂くん、二人とも優しいし、面白いし」

 琴葉はそう言って笑うのだった。


「ありがと。今日は楽しかったよ」

「うん。こっちこそ楽しかった。また学校で」

 琴葉の自宅前での別れ際のことだった。

「それから、これ」

 琴葉はそう言いつつ、鞄から一冊のノートを取り出す。プロットや設定などが記された、あのノートだった。

「どうして?」

 唐突にノートを差し出され、凪人は困惑する。それもそのはず、このノートは琴葉にとって、とても大切なもののはずだった。

「こんな大事なもの——」

「良いから、持っておいて」

 琴葉に半ば強引に手渡され、凪人は仕方なくノートを受け取る。

「あ、勝手に見たら駄目だからね」

 琴葉に念を押すように言われ、凪人は疑問を抱えながらも充実した気持ちで家路につくのだった。




 その夜、凪人は夢を見た。いつもの、幼いころの公園の夢だった。いつも通り琴葉が現れ、会話を交わしたあと、一緒に本を読む。途中までは何の変哲もない、いつもと同じ展開だった。

「あ、いたいた。ことちゃん、凪人くん、帰る時間だよ」

「遅いよ!」

 女性の声が聞こえ、琴葉が嬉しそうに声を上げる。凪人が声の方向、公園の入り口を見る————いる。そこには、少女の姿があった。長く伸ばした艶やかな髪を後ろで綺麗に結った少女は凪人たちよりも遥かに背が高い。中学生だろうか、セーラー服を着て、肩からはスクールバッグを下げている。

「お姉ちゃん!」

 少女に駆け寄っていった琴葉が、そう呼ぶのを聞いて、凪人は思い出す。この人は確か、琴葉の姉だ。以前、何でも知っている世界一のお姉ちゃんがいるのだと、琴葉に自慢されたことがあった。

「君が凪人くんだよね。初めまして。いつもありがとうね。ことちゃんと仲良くしてくれて」

 凪人は「は、はじめまして」と返しつつも頬を赤らめる。正直な話、目の前にいる彼女は凪人が今まで会ってきた中で一番の美人だった。澄んだ瞳は大きいながらも、それ以外の顔を構成するパーツは小さく整っている。透明感のある肌は触らずとも分かるくらいに滑らかそうだ。それでいて朗らかな雰囲気も纏っており、琴葉が自慢するのも頷ける、そんな少女だった。

「ごめんね、ことちゃん。ちょっと用事があって、ちょっと遅くなっちゃったの。帰ろっか。凪人くんも送っていくよ」


 それからは三人で、凪人の家まで並んで歩いた。道中は学校での出来事や面白かったことなどを、琴葉が延々と喋り続けていた。姉の方も相槌を打ちつつ聞いていたが、凪人が輪から外れることがないよう気にかけているのか、たびたび凪人にも話を振ってくれたりしていた。そのためもあって、最初は初対面の相手に緊張していた凪人も次第に会話を楽しく感じるようになり、気がつくと自宅の前まで来ていた。


「ばいばーい」

 別れ際、離れていくふたつの背中を凪人が見送っていると、姉の方だけが小走りで戻ってきた。

 

 ————! 

 凪人は状況が飲み込めないままに顔を紅潮させる。駆け戻ってきた姉は、突然凪人の額にキスをしたのだ。

「おまじない。ことちゃんのこと、お願いね」

 戸惑う凪人に、琴葉の姉はそう笑いかける。

 去っていく彼女の後ろ姿を、凪人は自身の激しい鼓動を感じながら、ただ眺め続けていた。

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