私はエイヴァ、醜いアヒルの子の娘
読みに来てくださってありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
5分間の休憩が与えられた。エイヴァはふっと息を吐き出すと、窓の外を見た。青い空が広がっている。緑の畑が、そこで作業する領民たちの姿が遠くに見える。だが、エイヴァはその傍に近づくことを許されていない。
窓から吹き込む風にガーデニアの香りが混ざっていたような気がしてはっとしたエイヴァは、窓際に駆け寄って下を見た。ガーデニアの花が1つ、咲いているのが見えた。
「やっと咲いたのね」
「エイヴァお嬢様、時間です」
ほぼ同時に発せられた家庭教師の声に、エイヴァは未練を感じつつも窓を閉めた。
「ええ、続きをお願いします」
窓を閉めたこの部屋にはもう風は吹き込まない。ガーデニアの香りもしなくなった。ただ、集中力を高める、そのためだけにたかれたローズマリーの香りだけが粘つくようにエイヴァの周囲に立ちこめていた。
★★★★★★★★★★
「醜いアヒルの子」という童話がある。
かなり多くの人が知っているお話の一つだと思う。だが、エヴァンス子爵家にはこの童話が書かれた本はなかった。落ち目の伯爵家なんかよりエヴァンス子爵家の方がよほど裕福だったにもかかわらず、だ。
商才に長けた当主たちが代々築き上げた財で作り上げられた図書館の蔵書は、「エヴァンス文庫」として王都にまで知られていて、紹介状を持った学者や文官がしばしばエヴァンス子爵家に出入りするほどのものだ。
そんな「エヴァンス文庫」には児童書だって当然たくさんあった。王宮の図書館にさえもうないと言われるアンダーソンの童話集の初版本が全巻揃っているはずなのに、なぜか一冊だけが抜き取られていることにエイヴァは気づいた。5才頃のことだったはずだ。
エイヴァは専属侍女のヘイゼルにどうしてなの、と聞いた。ヘイゼルは瞠目し、そして言葉を選ぶために少し時間をとり、そして小さい声でエイヴァにこう言った。
「ご当主様のお考えですので、一介の使用人に過ぎない私めには分かりかねます」
と。
エイヴァはその頃、まだ近所の似たような貴族の子どもたちと交流があった。そこで、特に親しくしていたある男爵家の令嬢に頼んで「醜いアヒルの子」と読ませてもらった。どうしてお母様がその本を片付けたのか、読んでも分からなかった。虐げられた白鳥のひなはかわいそうだと思ったし、ひなが成長して本来の仲間のところに飛んでいったのだから、ハッピーエンドのはずだ。
エイヴァは家でお母様に、アンダーソンの初版本が揃っていない理由を尋ねた。
「『醜いアヒルの子』というお話があると聞いたのですが、我が家の図書館になかったので、お友達のところで読ませていただきました」
母マデリンはその瞬間、見たこともないような恐ろしい顔をしてエイヴァを睨み付けた。あまりのその形相に息ができなくなって青ざめたエイヴァに気づいたマデリンは、はっとしたように普段の表情に戻り、エイヴァを支えてくれた。
「驚かせてごめんなさいね、あの本は修繕に出しているのよ」
だが、ことはそれほど簡単なことではなかった。
エイヴァに「醜いアヒルの子」を貸してくれた男爵令嬢の家は、エイヴァの知らぬ間にエヴァンス子爵家に出入り禁止となった。何かの集まりでその男爵令嬢に出会った時、話しかけようとしたエイヴァを見て男爵令嬢は怯えて逃げてしまった。呆然とするエイヴァに、少し年上の令嬢が教えてくれた。
「あなた、彼女の家で本を読んだでしょう? それがあなたのお母様の逆鱗に触れたのよ。あの子の家は大変なことになっているの。だから、あなたはあの子に近づいては駄目。今度こそ、あなたのお母様に何されるか分からないのよ」
何が起きたのかよく分からないが、とにかく「醜いアヒルの子」は駄目なのだと理解した。そして逃げた男爵令嬢にお詫びを伝えてほしいとだけ、事情を知る年上の令嬢に頼んでエイヴァは帰った。
しばらくして、ベネット男爵家が貴族位を返上して平民になったと風の便りに聞いた。エイヴァは膝が震えるのを押さえきれなかった。あの本を読ませてくれた男爵令嬢の家が、何らかの力で処分されたのだ……マデリンを初めとする大人の力で。そしてエイヴァはその日はっきりと理解させられた。
マデリンの言うとおりの子にならねば、エイヴァもいつかは処分されるのだということを。
その日からエイヴァはマデリンの望むような娘になるため、マデリンが付けた家庭教師の要求を全てこなした。体を動かせるのはダンスと乗馬のレッスンの時だけだった。乗馬なんて必要ないのではないかと思ったが、子爵家の領地を見て回るためには馬車では行きにくいところもあるため、将来の子爵当主に必要なものなのだと言われて、エイヴァは乗馬のレッスンにも勤しんだ。
そのおかげだろうか、体幹を支えるのに必要な筋肉がしっかりと付きながら、エイヴァはただ細いだけの令嬢たちとは少しだけ体つきが違った。鍛えすぎない、だが、無駄のないエイヴァの体つきに、マデリンは満足した。勉強も、マナーも、子爵令嬢、いや将来の子爵として必要なものよりも多くの知識を、マデリンはエイヴァに要求した。
エイヴァは疲れ果てていた。あまりにも勉強の時間が多すぎて、いつしか同年代の子ども同士の付き合いからはずれ、エイヴァはマデリンや家庭教師にむち打たれながら学び続けなければならなかった。誰ももうエイヴァの所に手紙を送らなくなった。返事を書く時間さえないのだ。返事がなければ当然手紙は来なくなる。エイヴァが息をつけるのは乗馬のレッスンと、ヘイゼルと過ごす寝る前の極僅かな時間だけとなっていった。
疲れ果てたエイヴァは、ある日熱を出してしまった。そしてマデリンと家庭教師のお許しを得て自室に戻る途中で、いつもは行かない3階に迷い込んでしまった。
埃っぽい廊下を進むと、少しだけ扉が開いている部屋を見つけた。フラフラしながらその部屋に入ったエイヴァは、足がすくんで動けなくなった。中年の男性がソファに倒れ込んでいたのだ。だらしなくボタンの外れた服は汚れきっていて、もう何日も、いや何ヶ月も同じものを着たままなのだろうと一目見て分かった。くすんだ金色の髪はボサボサに乱れ、青い目は濁りきって何も見ていないのに見開かれていた。その右手には酒瓶が握られていた。
誰なの? 侵入した賊?
ゆっくりと後ずさりしようとして、エイヴァの靴がコツンと扉に当たって音を立てた。男は気怠げに扉の方に顔を向け、そしてエイヴァと目が合った。沈黙が流れる。やがて男はふっと笑った。ひげも伸び、汚れきった顔だが、その造作は確かに美しかった。
「エイヴァか。大きくなったな。何歳になったんだ?」
「え?」
「ああ、俺のことはもう忘れてしまったか」
「あの?」
「私はエイヴァの父親だよ。ここに閉じ込められて、もう何年になるんだろうな。エイヴァが3才の日にここに閉じ込められたんだが、もうどのくらい経ったのか分からないんだよ」
悲しそうな目で、父と名乗る男は言った。
「最後に会えてうれしかった。エイヴァ、お前は……自由に生きろ。お前の心のままに生きろ。俺みたいになるなよ」
もう一度、男は美しく微笑んだ。はっとした時には、目から光が失われていた。瞼は開いているが、そこに生気はない。
ふと見ると、男の足には鎖が巻かれていた。部屋を出られないようにされていたのだ。こんなことをするのは、ベネット男爵家を平然と潰したお母様以外に考えられない。この邸の主人はマデリンなのだ。動かなくなった「父」らしい男性が死んだ……いや、マデリンに監禁されて死ぬのを待たれていた可能性に思い当たると、エイヴァは頭の中が真っ白になった。
そのまま意識を失ったエイヴァを、ヘイゼルが探し出してくれたらしい。ヘイゼルはそっとエイヴァを部屋に戻してから家令の所に行き、あの男性の異常を告げたのだという。
エイヴァが目覚めた時には、既に邸の中はバタバタしていた。事件性の有無を騎士団が確認しているのだとヘイゼルは言った。
「エイヴァお嬢様。何があったのですか?」
「あの人は……お父様なの?」
「はい。エイヴァ様のお父様でいらっしゃいました」
「でも私、お父様はいないってお母様から言われてきたわ」
「ええ、そうでございますね」
「……何があったの?」
ヘイゼルはためらっていたようだった。
「私が話したこと、他の誰にも言わないでいただけますか? もし気づかれたら、私はお嬢様のお側にいられなくなると思います」
「分かったわ。約束する」
ヘイゼルが教えてくれた父の真実。それは、父が「醜いアヒルの子」であったということだった。
読んでくださってありがとうございました。
いいね・評価・ブックマークしていただけるとうれしいです!