第三話 弟・イツキの不在
救急車に運ばれる前は、毎日のように軽トラに乗って、畑に行っていたのに、「ぱんつ」としか言えなくなってから、じいちゃんは一切行かなくなってしまった。
俺やイツキを迎えに来るために、軽トラに乗ることはあっても、決して車から降りようとは、しなかった。
何度か休みの日に、じいちゃんと一緒に畑に行ったけれど、あまり人がいないようなお昼とか、夕方とか、中途半端な時間ばかりだった。
前は、朝ごはんを食べたら、すぐに軽トラに乗って畑に行っていたのに。
隣の畑の人たちと、大声で話して、楽しそうにしていたのに。
「じいちゃん……」
西の空が、濃い紫色とうっすらとした黄色にまじる時間まで、ひとりで黙々と畑仕事をしているじいちゃんを見ていて、俺は悲しくなった。
そんな日々を送っているうちに、冬休みになった。
部活で毎日学校に行く俺は、時々じいちゃんに迎えに来てもらったりしていた。
以前は、父さん母さんに運動になるから登下校は自転車で行けと言われていたけど、じいちゃんを家から出して、外の空気に触れさせるため、あえて迎えをお願いするようになっていた。
父さんも母さんも、家に篭りきりなじいちゃんを心配しているのだ。
でも。
「……これは、本人の気持ちが大事だからねぇ」
母さんがため息をつきながら、そう言うと、誰も否定をしなかった。
そして、その日は遠征試合があって、帰りが夕方になった。
冬至を過ぎた夕日はとても早くて、自転車置き場近くに停めているじいちゃんの白い軽トラが、ぼんやりと光っているように見えるくらい、暗くなり始めていた。
部員同士で挨拶をした後、帰るために自転車を軽トラの荷台に乗せてから、じいちゃんの待つ暖房の効いた車内に入る。
じいちゃんは無言で、ハンドルを握った。
家以外では、決してじいちゃんは話さない。
たとえ、俺しかいない軽トラの中でも。
その沈黙の時間を埋めるために、俺は今日の試合の話をずっと話す。
じいちゃんがどこまで野球の話を面白がってくれるのかわからない。でも、「ぱんつ」の一言も言わないじいちゃんを少しでも楽しませたかった。
じいちゃんは、時々うなずきながら、黙って俺の話を聞いていた。
家に着いて、軽トラの荷台から自転車を下ろしていると、
「おかえり、イツキは?」
と、珍しく早く帰った母さんに聞かれた。
「え?知らないよ。今、学校から帰ったばかりだよ」
「おじいちゃんは、知らないの?」
じいちゃんは黙って首を横に振っていた。
「今日はイツキの誕生日だから、ケーキを取りに行くんだけど、一緒に行くって言ってて……暗くなる前に家に帰って待ってなさいって、言ったんだけど」
俺は自転車を地面に下ろして、そのままカラカラと農作業所の前にある自転車置き場まで、引っ張っていった。
いつもなら、イツキの自転車があるのに。
ない。
「母さん、イツキの自転車がないよ」
イツキはまだ小学校低学年だから、近所のエリアでしか自転車に乗らないようにしている。
よく行く場所は、守山自工前の広い砂利のところ。そこまで行って、ぐるっと回って家に帰ってくる。
「……ちょっと、守山さんちまで、自転車で行ってくる。イツキ、もしかしたら、守山さんちでお茶飲んでるかも」
「……そう、ね。うん、そうかもね」
言いながらも、俺も母さんもその可能性は薄いと思っていた。
守山のじいちゃんは、夕方の早い時間に風呂に入る。その時間は毎日決まっていて、遊びに行っても風呂の時間だと言って帰されるのが決まりなのだ。
その時間はとっくに過ぎている。
「……じいちゃん」
怖い顔をして、じいちゃんが軽トラの横に立っている。
退院してからずっと家にいるじいちゃんは、イツキと一番一緒に時間を過ごしている。
日が暮れた今の時間に、イツキがいないことの異常さが、誰よりも分かっているようだった。
「……とりあえず、行ってくるから」
「……ぱんつ」
「……うん、気をつけていってくるよ」
俺は自転車に乗って、守山自動車工場へと向かった。
「イツキ?来てないぞ」
夜間灯が看板を照らす守山自工には、予想通りイツキの姿はなかった。
「イツキ、自転車に乗っていったみたいで。
今日はこの辺に来てなかった?」
嫌な予感に、体全体がぴりぴりと電気が走ったような、落ち着かない気持ちになった。
守山のおじさんは、しばらく天井を見上げていたが、
「ああ」
と、声を漏らすと、俺の方に顔を向けて言った。
「そういえば、三時半ごろに、うちの前の砂利のところをぐるぐる回ってたな。
その後、電話が来たから中に入って……」
おじさんの言葉が止まった。
「……いや、まさか、なぁ」
がしがしと頭をかくと、「ちょっと待ってろ」と言って、自宅の勝手口の方へ向かった。
がらん、とした、おじさんのいない工場は、さむざむとして、見慣れない車たちが天井の光を反射して、冷たく見えた。
もぞもぞと足踏みをして、両腕を抱えて待っていると、おじさんが戻ってきた。
手には大きな懐中電灯をいくつも持っていた。




