第二話 じいちゃんの退院
病院に行くと、少し大きな部屋に通された。
会議室なのか、椅子はたくさんあったので、適当に座って待った。
しばらくすると、ドアが開き、白衣を着たおじさんに連れられてじいちゃんが入ってきた。
「じいちゃん!」
イツキが嬉しそうに走り出そうとしたので、俺は上着をつかんで止めた。
「じいちゃん、ゆっくり歩いてるだろ。
危ないから待ってろ」
「……うん」
俺はイツキの腕をとって、じいちゃんが椅子に座るのを待った。
じいちゃんの隣に座った白衣のおじさんは、お医者さんで担当医師だそうだ。
そのお医者さんが、厳かな声で告げた。
「おじいさんは、今、『ぱんつ』としか話すことができません」
「は?」
「え?ぱ、ぱん……」
父さんと母さんが戸惑った声を上げた。
俺たち兄弟は、子ども枠だから黙っていた方がいいと思っていたが、つい口から漏れた。
「ぱんつ?」
「ぱんつ?」
「ぱんつ?」
広い部屋に、長い沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、じいちゃんだった。
「ぱんつ」
本当にぱんつって言った……!
「あ、あの、すみません、どういうことなんでしょうか?」
「じいさん、ふざけて……こんなことやる人じゃないもんな、ううん」
汗をかきながら説明を求める母さんと、じいちゃんに話しかける父さん。
大混乱だ。
こほん、と、わざとらしくお医者さんが咳をひとつすると、説明を始めた。
「酒田さんは話すことは出来ますが、すべて『ぱんつ』という言葉になってしまいます。
ただ、それ以外のことは全く問題ありません。
ご飯も食べますし、歩けますし、私たちが話していることもわかります。
ちゃんと考えることもできますし、その返事もします。
ただ、その答えがすべて『ぱんつ』になってしまうだけなのです」
大真面目な顔で説明をするお医者さん。
それがよけいに俺とイツキの笑いを誘う。
「……にいちゃ」
「……だ、だめだ。黙ってろ」
我慢だ、ここで笑っちゃいけない。
そう思って足元の床の色を見つめていたが、じいちゃんが、
「ぱんつ」
と、大真面目な顔で重々しく頷いたので、耐えきれなくなって吹き出してしまった。
「ぱんっ……ぶふぅ」
「にい、にいちゃ、く、くふふふ」
がんばって口元に腕を当ててみたが、全然ダメだった。
「ふっふふ……」
兄ちゃんまで笑い始めた。
「酒田さんはしゃべる時は『ぱんつ』しか出てきませんが、筆談は今まで通りできます。
ただ、お年を召しているので、ずっと書いているというのも難しいようです」
俺たちが笑いをこらえようとして、こらえられないまま、ぐふぐふと笑っている一方で、お医者さんと父さんの質疑応答は続く。
「それじゃ、普段の意思疎通はすべて『ぱんつ』でやって、細かいことは書いて教えてもらうってことか……」
「おじいちゃん、看護師さんたちとも、それで大丈夫だった?」
重々しくうなずくじいちゃん。
あんな、重大なことを言いそうな顔で……。
「ぱんつって、……」
「ぶふっ」
俺たちは、いままでと変わらないじいちゃんを見て、安心したのと相まって、ずっとぐふぐふと笑いながら、じいちゃんとお医者さんと、父さん母さんの話が終わるのを待っていた。
じいちゃんが、帰ってくる。
それだけが、とにかく嬉しかった。
家に帰っても、じいちゃんは、
「ぱんつ」
と、しか言えなかった。
それでも、産まれた時からじいちゃんと一緒に暮らしていたからか、俺たち兄弟はだいたいの意味を読み取れた。
テレビのリモコンをとって、チャンネルを変えていると、
「ぱんつ、ぱんつ」
と、じいちゃんが言えば、
「あ、時代劇見るんだね。わかった」
と、イツキが答える。
それから、夜の決まった時間になれば、
「ぱんつ」
と、パンツとタオルとパジャマを持ったじいちゃんが言えば、
「お風呂だね」
と、俺が答える。
じいちゃんの生活パターンを熟知している俺たちにとっては何の不都合もなかった。
ただ、朝起きるのが遅くて、遅刻しそうになったり、宿題をしないまま、ノートを広げっぱなしにしていると、
「ぱんつ!」
と、気合いだけで怒られるので、前よりもじいちゃんが怖くなったくらいだ。
そんな、家族の中では通じるじいちゃんの「ぱんつ」も、外にいけばどうなるのか。
きっと、笑われるだろう。
じいちゃんが救急車で運ばれたことを知っている人たちも、入院していたことを知っていた人たちも、みんな「ぱんつ」と言うじいちゃんを見たら、なんて思うだろう?
きっと、認知症が、とか、痴呆症が、とか、病気になったと思って遠巻きにするだろう。
そんなことを俺たちは考えてもいなかったが、家に顔を出す近所の人たちが、
「退院したんだってね。
体の具合はどうだい?」
と、じいちゃんに話しかけるたびに、じいちゃんが、無言でうなずいているだけなのを何度も見て、ようやく気がついた。
じいちゃんがうなずいたり、首を振ったりするだけなのを見て、
「……おじいちゃん、喋れなくなったの?」
と、俺たちの顔を見て心配そうに言うので、
「喋れるけど、ちょっとまだあんまり話せないんだ」
と、兄ちゃんが咄嗟に答えてくれた。
近所の人たちは、それを聞いて、
「なんだか大変だったね。
歩けるなら、畑にでも遊びにおいで」
と、複雑そうな顔をして帰っていく。
その流れを横から見ていて、じいちゃんは「ぱんつ」とだけしか話せなくなったことが、恥ずかしいことと思っているんだな、と分かった。




