他人の不幸は蜜の味
彼女は戸惑いを顕にしつつ、私の手を取った。誤作動で車両が動くリスクを鑑み、乗務員室出入口脇へ徐に移動した。線路に敷き詰められた砂利が傾斜状に盛られているので、比較的安定した谷の部分に立つ。線路上を歩くとき、立ち止まって待機する際もこの谷を利用する。ここに立っていれば行き交う列車と接触しないから。
さて、警察と消防が来るまで、彼女を逃がすわけには、残念ながら行かない。列車を止めた賠償金を請求書される可能性も、家庭が崩壊する可能性もある。仮に逃がしたとしてもドライブレコーダーに記録されているので警察に見つかるのは時間の問題だ。
「私もね、何度も死のうと思ったんだ」
私から会話を、否、独り言を切り出した。
「生きていればいいことがあるかもなんて希望も少しだけあるけど、悩むっていうことは、少なくとも幸せになるポテンシャルはあると思うから。それと、私いま三十路なんだけど、このくらいの歳になると、過去に自分に対して意地悪してきたり虐めたりしてきた人たちが重病で寝たきりになって、何年か呻き続けながら死んでいったり、若い人は幸せな結婚をしたつもりが家庭崩壊したり、そういう他人の不幸は蜜の味に浸れることもあって、それがちょっと、いや、けっこう楽しかったり」
生きていればいいことがあるよ、希望を捨てないで、なんて言えたものではない。それを実感できるとしたら、早くて与えられた道の後半からだろう。
彼女からは返事も反応もない。私の胸辺りに視線を落としたまま。
運転台から美奈ちゃんの視線を感じた。窓を閉じているし車両から空調装置の音が発せられているから会話の内容は聞こえないはず。私が彼女を宥めている旨を指令員に伝えているのだろう。
やがてパトカーと消防車、救急車のサイレンが聴こえてきた。
線路脇にパトカーが停車し、警察官が降りてきた。私はサッとその場を離れ、車両の左前方3メートルに転がっている彼女のスマホを拾い上げた。画面が点灯した。
「……」
息を呑み込んだ。こういうときも冷静なのが、鉄道職に慣れた者の性か。




