295.水晶玉
出発までに交易品については概ね目途が付き、驚くことに実験農場もある程度形になってしまった。
実験農場は30メートル四方の田んぼを四つ作ることにしたんだ。二つは竹用で残り二つは水稲用である。
種から植え付けをするものと、既にある程度育ったものを植え直すものに分けた。ある程度育ったものを試すのは、枯れないかどうかをすぐに試したいから。
元々自生していたものなので、気候条件は問題ないと思うんだけど……人工的な環境だから確かめておきたい。
種の方の目的は言わずもがなだ。
水の引き込みが魔道具頼りになっているのを、本番では水路で引き込まなきゃなあ。
出発の時間が近づいており、後ろ髪を引かれる思いで田んぼを眺めていると頬を紅潮させたイゼナが声をかけてくる。
手には目録を持ったままに。
「水を張って育てる、なんて初めてです」
「連合国でも水稲を育てていませんので、試しながらにはなりますが……」
「水稲ならば塩害に悩まされる可能性が低い、もし上手く育つのなら素晴らしいことです!」
「大規模な灌漑工事によって大不作を抑え込めるようになるはずです。灌漑工事の際に水路も作りますので水稲もと考えたんです」
「水稲はホウライの歴史を大きく変える作物になるのではと胸の高鳴りが止まりません」
出発の準備があるので、と一旦イゼナと別れペンギンを抱えたセコイアと共に飛行船へ向かう。
彼女とはまた後程会う予定なのだけどね。彼女にも準備があるし、俺から言わなきゃ彼女が離れることはないだろうから。
こういった暗黙の了解は中々慣れないことなのだけど、ビジネススキルの一つだと思い日々努力している。
会社同士のお付き合いに比べると遥かに面倒なんだよな……。
貴族やら国家間の付き合いって。
イゼナから離れたところでセコイアがふと口を開く。
「昔、水を張った農場実験をしておったろう? あれは上手く行ったのかの」
「育つことは育ったんだけど、田んぼを作るのが手間でさ」
「ほう? 一応ノウハウはあるのかの?」
「うーん、大したデータがあるわけじゃない。俺が個人的に食べる分には問題ないんだけどさ」
井戸から魔道具の蛇口で水を引き、整えた農地に水を張る。
その後、田植えをしてあとは観察するだけ、といった雑な実験だった。
それでも一応は稲を収穫でき、食べるところまではいったんだよね。
しかし、手間がかかり過ぎる。既に成熟した技術とインフラを確立している小麦を水稲に切り替えることは何もメリットがない。
小麦不作の際の助け船にもなりえないと判断した。小麦以外に大麦もあれば、芋類もある。
中世の欧州地域と異なり、ジャガイモとサツマイモが一般的だしわざわざ多大なコストをかけて水稲を栽培する必要性がないのだ。
稲は収穫してからも脱穀が手間だし、もう、ね。
いざとなればキャッサバを公国側にも持ち込めばいいし、連合国で水稲が普及することはまずないと言っていい。
食の追求として……なら有り得るが、共和国からの輸入品があるし。小麦の三倍以上のお値段がする高級品となっているのが玉に瑕だけど、これは仕方ない。
俺の個人的欲望を満たしたいだけなら、屋敷で育てればいいだけのこと。
あ、あああ。たまには庭いじりでもやりてえ。え? 肉体労働なんて暇になっても絶対しないだろって?
そいつは暇になってから言ってもらおうじゃないか。は、ははは。
セコイアに後ろから抱かれたままのペンギンがパカンと嘴を開き尋ねてくる。
「ヨシュアくん、ネラックでも実験してみるかね?」
「だな。やってみよう」
「エリーくんに頼めばすぐだよ」
「ペンギンさん、確かに事実だけど、エリーの前では言っちゃあまずい」
エリーは自分の有り余るパワーを忌避しているところがあるからね。
「恥ずかしいですうう」と言いながら鉄板を持ち上げる姿は……彼女の名誉のためにこれ以上思い出すことは止めておこう。
すると何を考えたのかペンギンが斜め上のことを提言し始める。
「面積もあるからね。彼女一人、ではなく私たちも一緒にやろうではないか」
「ペンギンさんは見守っててね」
「そうかね。以前の体ならともかく、今は健康そのものなのだがね」
「その体じゃクワもシャベルも持てないからさ」
「確かにそうだね。見ているだけは忍びない。計算と図面で協力しよう」
「とても助かるよ。ペンギンさんは農業も詳しいの?」
「いや、全く持ってだね。家庭菜園をしたことがある程度だよ。ミニトマトとかね」
「あ、それ俺もやったよ」
見事に枯れたけどな。
最初からミニトマトが付いている鉢を買ってきて、水をやっていたのだけど日当たりが良過ぎたのか枯れてしまったんだ。
水をやったかって? 週単位で放置していたかもしれない。
そんな俺が植物鑑定のギフト持ちとは世の中どう転ぶか分からないものである。
分かっておりますとも。次に観葉植物を設置する際にはちゃんと水やりしますから。
アルルかエリーが水やりするんじゃないかって? そうだね。自室でも彼女らがお手入れしてくれると思うよ。
洗濯にお掃除にと何もかもやってもらっていると申し訳ない気持ちになってくる。「俺が雇ってやってもらってんだから」と言ってしまえば元も子もないのだけど、それでも感謝の気持ちは忘れないようにしようと心に刻み込んでいるんだ。
「準備は整っております」
「積荷が多くて大変だったよね。ありがとう、ルンベルク。リッチモンドさん」
タラップの下で待っていたルンベルクとリッチモンドに礼を述べる。
すると、絹のハンカチを目に当てたルンベルクが感極まったように。
「お気遣い、このルンベルク。この上ない喜びです!」
「この老骨、枯れるまであなた様に――」
更にはリッチモンドまで。
飛行船は積荷の重量にシビアだ。彼らなら念のために確認をと指示を出すまでもなく計算済みである。
積荷はともかく、俺の方に抜けがないかは確認しとかないと。
「帰りはイゼナさんと供の人を一人同乗させると聞いているかな?」
「はい。お伺いしております。ネラックに到着次第、客人のもてなし準備をいたします」
どうやら忘れてなかったらしい。敬礼するルンベルクに会釈していると早くもイゼナがやって来た。一人で。
「お待たせいたしました! ご迷惑をおかけいたしますが、よろしくお願いします」
「イゼナさん、お供の方は?」
「じゃあ行きましょう」という雰囲気の彼女に思わず声が出る。
対する彼女は小さく首を振り、手の平に水晶玉を乗せ掲げた。
「遠見の魔道具です。これを使えばいつでもジョウヨウの者と会話することができます」
「何それ欲しい……」
「はい?」
「いえこっちの話です。護衛もお付けにならなくてよろしいのですか?」
「これでもちょっとした腕なのですよ」
水晶玉をカバンに仕舞ったイゼナは腰の剣に手を添える。
そういう問題じゃないんだけどなあ、と思いつつ、要人警護の体制はちゃんと整えているから問題ないかとこのまま出発することにした。




