223.スクワット
三日後――。
無心から悟りを開けそうな、そうだ無我の境地ってやつだよ。写経を繰り返し……てはないし、邪な気持ちはありまくる。
邪な気持ちがあって無心って矛盾していると思うだろ? トリップしている時は何も考えていないのだけど、我に戻る瞬間が定期的に訪れてさ。
そう、今とか。ちょうど手元にある書類の山を一つ消化しきって、次の山を手前に持ってこようとした。そこでふと我に返ったのだ。
現時点で三代欲求のうち、食欲と睡眠欲は旺盛で……だ、だめだあ。寝たらあきまへん。そのまま旅立つ、いや、この後に休みが取れなくなるぞお。
バシコーンと自分の頬を叩くと、後ろで控えていたエリーが慌ててそばまでやってくる。
彼女は膝を床につけ、下から見上げるようにして俺の顔を覗き込む。
「大丈夫だ。問題ない」
「頬が赤くなっております」
そらまあ、勢いよく頬を叩いたからな。それでも眠気があっちに行ってくれないのだよ。
あれ? 彼女も何だか。
「ん、エリーと同じくらいだから何ら問題はないよ。ほら、熱もない。エリーは熱があるんじゃないか?」
「お、お手を。エ、エリーはへ、平気です!」
「そうかな。熱い気がするんだけど。念のため、水を少し飲んどいた方がいい」
額に当てた手を頬に動かし、彼女に向け柔らかな笑みを浮かべる。
「は、はわわわ」
エリーが声にならない声をあげていた。彼女には「休んでていい」と言ってるのだけど、ちゃんと俺を見守る任務をこなすとかで……。
彼女は家事を終わらせた合間に、こうして執務室のドア付近で控えている。
今みたいに俺が奇行に走ったり、寝落ちするとそばまできてくれるというわけなのだ。
人のことを言えた義理ではないのは承知しているが、彼女の様子がおかしい。
ほんのり桜色だった頬だけでなく、耳まで真っ赤だし、無理が祟ったんじゃないだろうか。ずっと立ちっぱなしだものな。
彼女の頬から手を離す。一方の彼女は俺の指先を目で追っていた。
くしゃ。
彼女の頭を撫で、ポンと肩を叩く。
「エリー。無理しないでくれよ。倒れたら元も子もないから」
「た、倒れそうです……」
「立てるか? 肩をかした方が、いや、背負った方がいいかな……」
「そ、そそそんな。こ、こう抱かれる方が……い、いえ、やはり、背負われた方がヨシュア様の首元が」
「エ、エリー。俺を抱っこするんじゃなくて」
「も、もも申し訳ありません! お、お水を飲んで参ります」
大混乱しているらしい。やっぱり熱があるんじゃないか?
ぴゅーっと部屋から出て行ったエリーのことが心配でならない。
が!
だがしかし。
書類の山を制覇せねばならんのだ。
それにしても、抱っこや背負われるより、背負いたい、抱きしめたい方なのだけど……多くの男性諸君は同じ気持ち? 俺だけかなあ。
自分から積極的に抱きしめたのって、最近思い出す限りだと一回だけしかない。アリシアではないぞ。
彼女とは彼女の言葉があってのとこ。彼女じゃなく、あれだよあれ、ヨダレの大魔法使いを抱きしめただろ?
思い出したくもない空の上で。
「よおおっし。今晩頑張れば、何とかいけそうだ。やるぞおお。うおっ」
「やあ」
ドキドキした。だって、書類を取ろうと手を伸ばしたらペンギンの腹に指先が突っ込んだんだもの。
いつの間に執務机の上に乗っていたんだろ?
「や、やはり、失礼だったのでは」
「エリーくんが気に病むことはないさ。私が頼んだのだからね」
エリーとペンギンのやり取りを鑑みるに、水を飲みに向かった彼女がペンギンを連れてきて執務机の上に乗せたと分かった。
彼女が行って戻って来るまでの間はそれなりに時間がかかっているわけなのだけど、まるで気が付かなかったとは……。
ちょっとばかし抱きしめることについて考えていただけなのに、思った以上に自分は疲れているらしい。
額に手をあてるが、ペンギンがパタパタとフリッパーを上下にしているのが目に入り、くすりとする。
「ペンギンさん、開発は順調なのかな?」
「そうだね。似たような作りの魔道具があった。それを組み合わせれば、複雑な機械工学も必要なさそうだ」
「おお。何とかなりそうな感じでよかったよ」
「君の方は、一応は順調みたいだね。セコイアくんと会話してね。それで君のところに来たのだよ」
「ん?」
「ずっと座ってばかりで体を動かせていないだろう? といっても、君に課せられた業務的に動くわけにもいかないときた」
唐突だな。ペンギンが執務室に来たことは開発の件ではなかったらしい。
彼と俺が運動をしないことはまるで繋がらないのだけど……。
首をひねる俺に向け、エリーがにこりと口元だけに笑みを浮かべしずしずと執務室の右手側に立つ。
一礼してから、彼女はペンギンを両手で掴み、上に動かして元の位置に戻した。
「え、えっと」
「この動きです。ヨシュア様」
困惑する俺に対し、エリーが真面目な顔でそんなことをのたまうのだ。
意味が分からず、思わず声が出そうになるほど困惑が加速する。
「エリーくん。どうやらヨシュアくんは何を言わんとしているのか理解できていないようだよ」
「も、申し訳ありません。ヨシュア様」
「い、いや。ペンギンさんの上下運動を見て癒されようってことかな……。嫌いではないけど」
どうやら回答が違ったようだった。
ペンギンが首を左右に振り、目をぱちくりさせる。首の可動域が広い。さすがペンギン、なんて変なことが頭に浮かんだ。
「セコイアくんが、君の運動不足解消にと提案していたんだよ。私を持ち上げ、降ろす。これだけで多少は運動になるだろうとね」
「そういうことか」
セコイアが以前、ペンギンを持ち上げてとかランニングをして、なんてことを言っていた気がする。
「どうだい? やってみるかい」
「ペンギンさんなら知っているかもしれないけど。バーベルの上げ下げは重たいものを一回あげるより、軽いものを十回あげる方が遥かに効果が高い。記憶違いかもしれないけど」
「確かに聞いたことがある。私も500ミリのペットボトルに水を入れて腕の上げ下げをしたものだ」
「それそれ。ストレッチとスクワットくらいでいいんじゃないかな」
「よし、じゃあ。せっかくだし一緒にやるかね」
妙にやる気なペンギンに思わず頷いてしまった。
腰やら膝の負担も軽くなることだし、ストレッチだけでもやるかな。
「ちょ、ペンギンさん」
「スクワットだよ」
「フリッパーしか動いていないような」
「ちゃんと屈伸もしているとも」
足が短すぎて分からん。
ペンギンのパタパタ体操を見ながら、おいっちにっと屈伸をしたり体を伸ばしたりとストレッチをする。
「エリーもやる?」
「い、いえ。私は……」
「あ、スカートだものな。ごめん、配慮がなくて」
「いえ! ヨシュア様の前で畏れ多いと愚考した次第です」
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
裾の長いスカートだし、屈伸しても中が見えたりなんてことはなさそうだと思ったのだけど、無理に誘うのも本意じゃない。
しかし、ペンギンがノリノリ過ぎて声をあげて笑いそうになってしまった。
フリッパーもさることながら、首の動きがいろいろやべえぞ。
おっと、俺もストレッチを続けねば。




