206.聞け、ローゼンハイムの民よ
大聖堂の間を出たところで、どちらともなく自然と手を離す。
もちろん、アリシアと俺のだ。狐耳は繋いだ手をフリフリしてご満悦な様子である。
これでご機嫌になるのだから安いもんだよなあ、と微笑ましい気持ちになったが、すぐに先程彼女がのたまった「宙吊り」のことを思い出し、小さく首を振る。
ああ、やだやだもう。もう少しスマートに帰還できないものか。
探偵物の主人公がさっそうとヘリコプターから吊るされた縄梯子を掴んで去って行く。
なんてものはアニメの中だけなのだ。現実でやるもんじゃない。
余程苦渋に満ちた顔をしていたのか、アリシアが物憂げな目をこちらに向け、次にさっきまで俺と繋いでいた手に目を落とす。
「憂いでいるのですね。追放刑がありながら、領民の前に出ようとしておられるのですから」
「いや、そこはほら、何かあれば口元が緩い彼女が護ってくれるさ」
「なんじゃとお」
勘違いするアリシアに、まさか宙づりがまだいやだー、なんて思ってましたとは言えず。
一方、すかさず突っ込みを入れてくるセコイアに向け空いた方の手で彼女の口元へ親指を向けた。
慌てて自分の口を拭い、結果を確かめるセコイアである。
うん、まだ涎は出ていないな。
ハッとした彼女がむきーと迫ってくるが、額を押しこれ以上前に進めないよう押し留める。
そんなやりとりをしている間に教会の出口が見えてきた。
扉は開け放たれている。
また、扉を挟むようにして直立不動の二人の姿が確認できた。
アリシアと俺に向け、ビシッと敬礼する二人を俺は知っている。
一人は中年の口髭が渋い騎士団長で、もう一人は彼より更に年長の官僚風の装束を着た壮年の紳士。
紳士は経済担当大臣を務めるグラヌールである。
「聖女様……ヨシュア様、ありがとうございます」
何事かつぶやいた騎士団長だったが、声が小さ過ぎてよく聞こえなかった。
「ん?」
「……今のは独り言でございます。いきなりの非礼、重ね重ね申し訳ありません!」
聞き返すと、力一杯頭を下げられてしまう。
「騎士団長。手間をかけさせた。俺のわがままを聞いてくれてありがとう」
「私はヨシュア様が再びローゼンハイムの土を踏まれること、心より感謝しております。ルンベルク殿とリッチモンド殿にもお礼申し上げます」
「刑が免除されていないことは理解している。少しの間だけでいい。頼む」
「誰も、ヨシュア様のご帰還を咎める者などいようはずがありません」
「いくら慕われていようが、元トップ自らルールを破ることをやってはいけない。だが……」
「重々承知しております」
ルールはルールだ。国のトップが簡単にルール違反をするようでは、規律が意味をなさなくなる。俺が目指した公国は人治主義ではなく、法治主義なのだ。
法が人より上位にくるべきという考えが根本にある。
法治主義に転換できるよう、改革を推し進めたもののまだまだ浸透していない。
公国以外の国は法より為政者の方が上位にくる世界で、法治主義という考え方自体が議論さえされていない状況だ。
浸透していない、誰しもが人治主義の方こそ貴ぶとしても、俺はそこに甘えるつもりはない。
自分で改革したものだしな……。自ら破ることには相当な葛藤があった。
そんな俺の態度を見てか、壮年の経済担当大臣グラヌールが一歩前に出る。
「それには及びませぬ。ヨシュア様」
「それは」
さっと一枚の羊皮紙を掲げるグラヌール。
彼の手に握られていたのは見慣れたフォーマットの書類だった。
異なるところは、所狭しと大臣たちのサインが書かれており公国印まで押されていること。
「緊急事態の裁可か」
「さすがヨシュア様。一目でお分かりとは。はい。ご認識の通り、この書類は経済担当大臣として発出することができる緊急事態における一時的処置でございます」
「よくぞ、機転を働かせてくれた。さすがグラヌールだな」
「いえ、発案は私ではなくバルデス卿です。彼をこそお褒めください」
「どちらもよくやってくれた。裁可を取るために二人が奔走してくれたのだろう?」
「ヨシュア様には敵いません。何でもお見通しでございますか」
「分かるさ」
分かるさ。グラヌール。そして、バルデス。
心の中で再度同じ言葉を呟く。
「緊急事態に関する法案」を議論し定めたのは俺だ。
いや、正確には俺が中心となって細部を決めたのは官僚たちである。
もちろん、この法案は俺が堂々と帰還するために定めたものではない。
どういったものだったのかと言うと、その名の通り緊急事態が発生した際の超法規的措置を定めたものである。
たとえば、都市部にモンスターが大挙して押し寄せ退避せざるを得ない状況になったとしよう。
都市部には犯罪者や身体的理由、仕事の関係によってどうしても都市部から離れられない人が多少存在する。
そんな人たちを無理やりにでも移動させてしまうことができる法案が緊急事態の裁可なのだ。
犯罪者に対しては一時的に刑を減じ、牢から出したり、労役から解放する。
一方、身体的な自由がきかない人に対しては、移動を手伝える人を強制的にあてがうといった感じだ。
ある意味何でもありの緊急事態の裁可なわけであるが、強権故に発動条件を厳しく定めている。
都市によって異なるのだけど、ここローゼンハイムの場合は公宮の大臣のうち70パーセント以上の署名が必要としていた。
グラヌールとバルデスの二人は、俺が来ると騎士団長から聞いてすぐに動いてくれたのだろう。
僅かな日数で裁可に必要な署名を集めるとは、大変だったに違いない。
「いやはや。正直、署名はすぐに集まったのです。我先にと殺到して順番争いが起きてしまうほど。全大臣の署名がございます」
弱ったとばかりにグラヌールが苦笑する。
そんな彼に向け、アリシアが右手を羊皮紙へと向けた。
「あ、今はアリシ……聖女が承認を行うんだな」
「そうです。署名も緊急事態の裁可の内容も全てここに記載しております。聖女様、ここに記載している内容を今からご説明いたします。その後、サインを頂けましたら」
ふむふむ。そういうことか。
最終決裁者をアリシアにしているってわけなんだな。
大臣らの署名を集めて、決裁を行うとなるとアリシアくらいしか。あ、他の書類も全て彼女がサインだけしていたのかもしれない。
名目上だけでも、誰かしらが承認する方がよいとなったわけか。
俺の元にも大量に書類が押し寄せていたものな。それをアリシアが代わって行っていたと見ていい。
説明をはじめようとしたグラヌールに向け、小さく首を振るアリシア。
「わたくしがグラヌールさんの説明を受けても受けなくても変わりません。全ては神の御心のままに」
「え、ですが」
「グラヌール。アリシ……聖女はみんながちゃんと考えて出した書類だから、大丈夫だって言いたいんだよ。それに、俺に気を遣ってくれているんだ」
「な、なるほど。ヨシュア様には説明せずとも我らがどのような内容を記載したのか把握されておられることでしょうし」
そうだな。
緊急事態の裁可を作ったのは俺だ。
ならば、今回の抜け道として使ったとなると何を書いているのかだいたい分かる。
俺の追放刑を一時的な処置として無効にするってところだろ。期間は俺が演説を終えて、立ち去るくらいの間かな。
ちょうど、モンスターの襲撃が近いから緊急事態と被せたってわけだ。




