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「僕は僕だけど僕じゃない」

作者: Z







「 僕 は

僕 だ け ど

僕 じ ゃ な い 」





   



目次 


一、始まりの防波堤 

二、始まりは、きっと救急車

三、忘れられた始まり

四、毎日が新たな始まり

五、「世界の秘密」が覆され始める

六、現実と思いと願いとの闘いの始まり

七、僕の病気の始まりと経過

八、奇跡の始まり

九、ゼロへの始まり

十、終りもまた、始まりの1つ





一、始まりの防波堤


「ねえ、俺くん!」

そう言って、堤防を歩いていた彼女は、

夕日を背に振り返った。

「ん?何?」突然のことで驚きながらも、

平然を装って答えた。

「私の秘密とー、世の中の秘密! 

どっちか1つ教えてあげるとしたら、

どっち聞きたい?」


この何とも言い難い質問から、

僕と彼女の物語は始まる事になる。



「なんだよ、それ。どっちでもいいよ。」

少しめんどくさそうに、僕は答えた。

「いーから!どっち?」

ムッとした顔で、問い詰めてきたので、

「じゃぁ、世の中の秘密で。」と、答えた。


所詮、僕なんかが彼女の秘密を知ったところで、

対して意味がないと思ったから、そう答えた。


「私のじゃなくていーんだぁー?」

人の心を見透かすような笑顔でニヤニヤしている。


慌てて、後ろを向きながら

「どっちでもいいって言ったじゃん。」と答えた。


「じゃぁー発表します!」

また元気よく、大げさに、、、


「どんなに泣いても涙が枯れることは、ないんだよ。」

ボソっと呟くように彼女は言った。


「は? それが世の中の秘密?

なんだよそれ、秘密でもなんでもないじゃん。」

揶揄われたと思った僕は、少しムッとした。


「涙が枯れるまで、泣いたら忘れるよ?

とか

止まない雨はないんだから!

ってゆーでしょ?」


「それで?」

正直、あまり興味はなかった。

ただ止めるのも気が引けたから話を合わせた。


「んー、続きは、まだ内緒!

また今度ね!? オ・レ・くん!」

そう言うと走って言ってしまった。

結局一体何だったんだろう、、、


話は数時間前に遡る。


僕は近くの海に来ていた。

散歩なんて仰々しいものでもなく、

ただここから見る夕陽が好きだった。

ある1つの理由を除いては。

天気がいい日は富士山も良く見えた。

いつか、たまたま来た日に、ダイヤモンド富士が

見えたらいいなぁ なんて事を思っていた。


今日もいつもの様に、ただ海の声を聞きながら、

沈む太陽を見ようと、

僕の中での、お約束の場所に来ていた。

人が近づいて来ていた事も気づかなかった。

多分、僕がココに来た時は誰もいなかったはず。

だけど、そこに聞き覚えのある声がした。


「あれ?」僕の背中越しに声がした。

突然の人の気配に驚いて振り返った。

あ、高校の時、同じクラスの・・・

そう、確か浪川さんだったはず。

「あの・・・ 高校、同じクラスだったよね?」

そう言って彼女は少し照れ臭そうにしていたが、

当時と同じく、明るく、誰とでもすぐ話せて

仲良く慣れちゃう性格は、あの時のそのままのようだ。


ただ、僕は学校で会えば、挨拶を交わした

そんな程度ぐらいしか記憶していなかったが。

だから、彼女の詳しいことはよく知らない。

右目の横のホクロが印象的だったのと、名前ぐらいだ。


「俺、俺、あぁ、多分。いや、そうだったね。

俺の前の前の席だった。」

何とか記憶を呼び出して、

最初に思い出したことを言った。


「そんな事、覚えてるの?変な人ぉ」

クスっと笑って、僕の隣に座って来た。

「いまだに、俺、俺・・・ってゆーんだね(笑)

変わらないなぁ。

そーだ!高校の時、女子達が

なんてアダ名つけてたか知ってる?」


何の話だ?! とにかく高校では

目立たないように生活してたのに。

女子達が僕の事なんかを話題にするはずがない・・・

「俺、俺の? いや、知らない。」


「えー知らないんだぁ。正解はー  」

「お・れ・く・ん」

 彼女は、また笑いながら答えた。

「だって、女子に話しかけられると、

ぜーったい、俺、俺、って2回言うんだもん。

普段、男子と話してる時は、「僕」って言ってるのに。

だから、いつの間にか、女子の間では、

[俺くん]ってあだ名がついてたんだよ⁈

全然、知らなかったの?」


「あ、あぁ、知らなかった」

そう答えながら、だからどうしたと、内心思っていた。

もう高校生ではないし、何より、

一人のこの時間を邪魔されるのが、少し嫌だった。


「そんな俺くん、今、海見ながら泣いてたでしょ?!」

そんな事をニコニコしながら言ってくる彼女に

無視とか平然と対抗できる技術は、

生憎、未だに僕は身に付けていなかった・・・


「俺、俺が? 泣いていた?

いや、全然。ただ海を眺めてただけだよ。」

疑いの眼差しで僕の顔を覗き込みながら、

「ふーん、じゃぁ、そうゆう事にしといてあげる。」

と、全く信じてない顔で不敵な笑みを浮かべていた。


何だそれは・・・自分勝手だな。そう思いながらも、

「な、浪川は、何しに来たんだよ」と聞いた。

すると、彼女はとてもびっくりした顔をして、

「あー、名前、覚えてくれてたんだ?!」


しまった!あまり覚えてない風にするために

マニアックな席の話しをしたのに・・・

そりゃぁ、覚えてるに決まってる。

親の転勤で新しい高校に転入したその日に、

初めて話しかけて来た女子だったから。

その日以来、何となく彼女のことが

気になっていたのは事実だ。

でも、これと言って親しくなったわけでもなく、

何事もなく高校を卒業したのも事実だった。

ただし、この時の僕の記憶のままであるなら。だが。


「あ、名前あってた? 

うろ覚えで自信なかったんだけどさ。」

なんて慌てて変なフォローを入れてしまった。

「うふふ」と 素敵な、いや不敵な笑みを

また浮かべている。

相変わらず、何を考えているのか分からない。

「俺くん、いつもここに来るの?」

そう言って、低い防波堤の上を歩き始めた。


仕方なく後を追いながら、答えた。

「あ、そう。 いや、たまに」

自分の事を聞かれるのは、あまり好きじゃない。

他人の事も、あまり興味はないけど。


「私も最近だけど、よくココに来るんだ。」

「・・・」

へーそーなんだ、とぐらいにしか

思わなかったから、あえて返事はしなかった。

とにかく僕は早く独りになりたかった。

簡単に分かりやすく言えば、

めんどくさかった。


僅かな沈黙と波の音。


「ちょっと聞いてる?」

慌てて頷くと、彼女は続けた。

「ここに来るとね、太陽さんが沈む時、

嫌な事、ぜーんぶ引っ張ってってくれる様な、

そんな気持ちにさせてもらえるんだ!」


な、何だと?

どこかで聞いたセリフに僕はびっくりした。

僕と同じ様に考えて、ココに来てる人がいるとは…

「俺、俺も!  俺もそう思う。」

思わず口走っていた。


彼女もまたびっくりした顔をしていた。

「やっぱり俺くんも、そう思うんだね。」

次の瞬間、彼女の頬を伝う涙が夕日で光った。


「あっ・・・、俺、、、俺、なんかゴメン」

予想してなかった彼女の涙に、

心はあたふたしていた。


彼女は何も言わず、また小さく歩き出した。

波の音と、沈み始めた夕日が、

時間の経過を緩やかにしている、

そんな超自然の揺らぎを感じていた。


何分経ったのだろう、


太陽が沈みきってしまいそうな頃、

最初に言った質問をして来たのだ。


ある日突然、思いがけず物語の頁が開かれた。

それが、忘れたくても消せない

僕と彼女の物語の始まりだった。



2、始まりは、きっと救急車


もう何年前だろう。

僕は救急車で運ばれた。

意識がなく、痙攣していたらしい。

母親が夕飯の支度をしている最中だった。

弟たちが見つけてくれた。


僕が意識を取り戻したのは、

病院の緊急治療室で先生が、僕の両目を同時に開いて

名前を呼んだ時だった。

アノ瞬間は、今でも鮮明に思い出せるくらい

何か体に刻み込まれる、何とも気持ちの悪い

そんな衝撃だった。

その日を境に、僕の中の僕が変わり始めていった。

真夏の出来事だったが、

猛暑の8月にスエットを着込んだり、

意識は1日に何度も飛び、痙攣も度々起きた。

ある時ふと自分の中に記憶のない時間があることに

ふと、気づいた。それも、毎日。 数分から数時間。

実はと言えば、それまでもなんとなく

そんな気がしてなかった訳ではない。

ただこの日を境に、それが徐々に確信に

変わっていくのが、自分でも分かった。

ここで挙げればきりが無いほどに、事態は深刻だった。

詳しい事は少しずつ話すとして、簡単にいえば、


「僕は僕だけど僕じゃない」


そんなある日の母に用事を頼まれた帰り道だった。

自転車で遠回りをして帰ろうと思いつき、

気の向くまま、適当にウロウロを走っていた。

そして、あの海にたどり着いた。

そこで見つけた秘密の場所。


どこか懐かしい匂いがして、心が落ち着く場所だった。

それから、時間を見つけては、

あの場所まで夕日をよく見に行くようになった。


実は浪川とは、あの日海辺で会ってから、

以來そこだけでよく会うようになっていた。


待ち伏せされてるような気もしたけれど、

そんな訳ないか、と あまり気にしなかった。

人をできるだけ避けて生きる、そんな性分のせいか

多分、着く前に見かけていたら

会わずに引き返していただろう。

それを彼女は知ってか、知らずなのか、

決まって僕が到着して数分後に現れた。


現れたからと言って、また来たのか?と

そそくさと帰るのも気不味く思え、

本当はものすごく独りになりたいという気持ちを

僕なりに必死に堪えながら、

「異性と二人きり」という、僕にとっては

最も気不味い時間を過ごす羽目になっていた。


いつしかその気不味ささえ、その思いの違和感を

楽しむ自分に気がつくのは、もう少し後の事なのだが。

会えば決まって浪川は、聞いてないのに、

自分の事をペラペラと喋っていた。


高校卒業後、進学に失敗した事。

もう人生終わりだ、と絶望して引きこもった事

1年くらい前から、働き始めた事

今、ある事でとても悩んでいる事。など。

未だにその悩みは教えてくれないが・・・

別に、どうしても聞きたい訳ではないから、

もちろん敢えて、深くは聞くことはなかった。

時折、試す様な眼で僕を見つめては、

また話を続けていた。


見つからない答えを縋り求めて

ココに辿り着いた事は、僕と似ていたのかもしれない。

今思えば、そんなにと思いを持ち合わせた2人を、

大きな力が手繰り寄せていたのだろうか。

そうともなると偶然という言葉では

簡単に片付けられない話になってしまうが、

その時は、「たまたま」ぐらいにしか思っていなかった。


ただ、彼女の話はいつも

何かを必死に堪えているかのように聞こえた。

懸命に今ここに、何かを残そうと、

一つ一つ自分で確かめるかのように。

そしてそれを、他の誰でもなく、

何故か、この僕に伝えようとしているかのように

僕の網膜に映ったいた。

単なる自意識過剰と言われれば、そうなのだろう。

ただ、それとは違う何かを感じていた。

ある日の夕方、

いつも通り堤防で沈む夕陽を見送っていた頃。

僕の携帯にメッセージが来た。


彼女からのメールだった。

ついこの間あった時に、どうしてもとせがまれ、

仕方なくアドレスだけを交換していたが、

当然、僕の方からは送る事はなかった。


それからの、初めてのメッセージ。

相手にして、自分の時間を奪われるのが嫌だったが、

初めてだったのもあり、メッセージを開いた。


開くと、件名タイトルはなく、

本文に、ただこう書かれていた。


「私がいない…」


はい? と思いながら、ついつい返信してしまった。

「ど、どういう事?」


すぐ返事が返って来た。

「ごめん、ごめん! 気にしないで!

ほんと忘れていいから!」


いや、気にするなと言われても、気になる。

意味も、意図も、皆目見当がつかなかった。

でも、送る人を間違えただけかもと思い。

結局、そのままにしてしまった。


思い起こせば、本当は、それが当時の彼女の

精一杯のSOSだったのかもしれない。


しかし、その後そのまま連絡が来ることもなく

海辺で会うこともなくなり、

半年くらいが過ぎたが、さほど気にはしていなかった。その時は、それが実の所本音でもあり、

不意に僕の領域に土足で踏み込んでくる、

そんな侵入者が、姿を消してくれたことに、

有り難ささえ感じていたと言っても、

もはや嘘ではないかもしれない。


人に言わせれば、思いやりもない

酷い人だとなるのかも知れないが、

僕は、自分を生きることがやっとだった。

とにかくメールの事も、連絡が途絶えた事も、

海で会わなくなった事も、あまり気にもせず、

むしろ、ほとんど忘れかけ、記憶の片隅に・・・

程度になっていた。


ただこの事が、僕の人生の中で、

生涯忘れることの出来ない後悔の一つになろうとは、

この時は、もちろん知る由もなかった。


それを痛感し始めた出来事の話もしておくべきかな。

結局、一切の連絡も無くなり、会う事もなくなってから

約一年が経とうか、というある日の出来事だった。


いつもの様に、「あの」場所に向かっていた夕方。

海辺に近い交差点で一台の救急車とすれ違った。


別に救急車とすれ違ったからと言って、

今更特段気にするようなことでも無かった。

ただなんとなく、サイレンのけたたましいアノ音が

いつもと違うような気がして、覚えていた。


海に着くと、いつもは殆ど誰もいない防波堤に

見慣れぬ人集りが出来ていた。

「何かあったのかな?」

そう思いながらも、人だかりの横を通り過ぎて、

いつもの場所に向かおうとした。


「あーダメダメ! そこ今進入禁止だから!」

突然後ろから、叫び声が聞こえた。

えっ?と振り返ると警察官がいた。


人だかりに紛れていて気づかなかったが、

数人の警察官が、何人かと話をしていた。


確実に何かがココで起きた証拠だった。

まぁ、ダメと言われたら、仕方ない帰るしかない。

引き返し、また人だかりを通り過ぎる時に、

群がる人達の話し声が、聞かずとも耳に入って来た。


「若い女の子だって。」

「釣りに来てた人がいたから、

すぐ救急車呼んだんだってさ」

「いつも、ココに来てたらしいよ。 

防波堤から海に落ちた、って自殺なの?」

そんな風な事を話していた。


その瞬間、強い風が頭にぶつかる様な感覚に襲われ、

そこで僕はやっと思い出した。


「なみ、かわ、さん・・・?」


じゃぁさっきすれ違った救急車には、浪川さんが??

思わず僕は目の前にいたおじさんに声をかけた。


「あ、あの、俺、俺は・・・じゃなくって、

女の子って! 救急車! 

どこの病院か分かりますか?」

何を慌てているのか自分でも分からなかった。

焦りすぎて、まともな日本語になって無かった。

知らない人に話しかけるなんて、

殆どした事がなかったのに。

「あぁ、向町の森咲病院みたいよ。

君、あのこの知り合いかい?」


強い潮風で最後の方は

もうほとんど聞き取れていなかった。

結局、おじさんの質問にも答えず、

気がついたら、自転車を猛スピードで走らせていた。


なんで自分が・・・? 

意味も分からぬまま、ただただ心がやはり焦っていた。

なんだか、自分が行かなきゃいけない。

そんな変な感覚が僕を覆っていた。

心臓の鼓動が悲鳴をあげるのも無視して、

身体中の力を、ただ自転車を漕ぐことに

集中させていた。

「私がいない」

忘れていたはずの彼女からのメッセージが、

病院へ向かう途中、何度も僕の頭を殴りつけた。


何かは分からない。分からない。分からないけど、

けど、その何かに、何でもっと早く

気づいてあげられなかったんだろう。

そんな意味不明な罪悪感でいっぱいだった。

ひたすら漕ぎ続けて、ようやく病院についた。

何分走ったのだろう、もう足がガクガクだった。

疲れ果てたのか、待受ける現実が怖かったのか、

病院に入ろうとする足が動かない。


僕が今ココで病院に来た所で何の意味があるんだろう。ただの高校のクラスメイトでしかない僕が・・・

何で来たの?って誰かに聞かれても答えすらないし。 

そんな思いさえ込み上げて来て、帰ろうかとも思った。


そんな時だった。


[俺くん・・・]


確かにそう聞こえた。

いや、たぶん聞こえた気がしたに過ぎないのだろう。

でもその声で決心がついた。

何でもいいや。ここまで来た。とりあえず入ろう。

そう自分に言い聞かせて、病院の中に入ることにした。


診察の人やら、先生やら看護師やらで、

病院内はバタバタと慌ただしい空気が流れていた。

「あの、さっき救急車の女の人って…」

受付の人に食い入る様に話しかけた。

「あ、はい。今、治療しています。

失礼ですが、ご親族の方ですか?」

不審そうな目で聞かれた。


そうだよね。やっぱり聞くよね。

「いや、あの、親族ではないんですが… その、

大切な友人で。」

とっさに口がそう動いていた。


汗まみれの僕の形相を見て、何かを察したかの様に、

受付の女性が、ある場所を案内してくれた。

「事情がおありのようですね。コチラへどうぞ」


いくつ扉をくぐり抜けただろうか。

関係者以外立入禁止 と書かれた扉がいくつもある

廊下の途中で、女性は足を止めた。


[ ICU 集中治療室(緊急)1 ]


案内された部屋の入り口には、そう書かれていた。

「どうぞこちらで、お待ちください。」

言われた方に振り返ると、

部屋の前の廊下にベンチが置いてあった。

「あ、ありがとうございます。」

あの慌しかった病院の入り口とは、打って変わって、

病院の奥まで入っていった先の静まり返った廊下。

案内を終えた受付の人の足音だけが高く響いている。

周りのベンチには、誰もいない。

ほぼ勢いでここまで来てしまったが、

この後どうしようか。

僕なんかが、ここで待っていることに、

果たして何の意味があるのだろう・・・


考えた所で、答えなんか出なかった。

ただただ座っていることしかできなかった。

時間の流れが永遠に思えた。


突然、静かな廊下に携帯のバイブの音が響いた。

マナーモードのバイブでさえ、

ここでは静寂を搔き切る。

慌てて携帯を見ると、母からのメールだった。

「どこにいる? 帰りに牛乳と卵

買って来てくれない?」

何だよ、こんな時に。軽くムッとしながら、返信した。

「ごめん、何時に帰れるか分からない」

送った後で、何で怒っているのか

自分でも分からなかった。


何時に帰れるか分からない

そんな事、親に一回も言った事なかった。

でもそんな事をいちいち構っている場合では

ないような気がした、そんな歳でもないと思っていた。


「どうしたの?何かあったの?

また病気の発作が出た?」

明らかに心配を露わにしたメールが

すぐ返って来たが、敢えて無視した。


「何時に帰れるか分からない。」

正直な僕の心の声だった。

当の本人の自分が、どうしたらいいのかさえ、

分からなかったのだから。

当然今、ここで帰ってもいい。

僕がここにいることも、彼女は知らないのだから。

誰かに責められることもないだろう。

 だけど僕は立てなかった。

まるで強力なボンドでベンチに付けられたみたいに、

廊下の空気が、僕にここにいなさい、と言っていた。


何分経っただろう。

ただ頭に重くのし掛かる空気に耐えていた。

また「俺くん」と脳が呟いた。 

思わず蹲っていた顔をあげたが、誰もいない。

でも確かに聞こえた。そう浪川さん、彼女の声だった。

今度は、勘違いなんかじゃない。 

そう思えるくらいハッキリ聞こえた。

でも彼女は部屋の中。たぶんここで、

声に出しても届かないだろう。

だからそっと 

「いるよ」 

と胸に答えた。

声にならない声が彼女に届けばいいと、

強く強く自分の手を握りしめた。

なぜか分からないが、

その時チラッと廊下の時計を見上げた。


 20時 36分ぐらいか・・・


あぁ、気がつけばしっかり夜になっている。

昼過ぎに家を出てから、何か食べることも、

薬を飲むことも、トイレに行くことすら忘れていた。

そう思ったら、急にトイレに行きたくなって探した。

早々に用を済ませ、出ようとした時、

何やら人の話し声がした。


急いで戻る。

さっきの部屋のドアが開いている。

部屋の光が廊下にこぼれていた。

慌てて小走りで近寄ると、

ちょうどベッドが部屋から出る所だった。


目の前を通り過ぎて行くベッド。

酸素マスクやら、いろんな管とか機械に繋がれた女性。

間違いなく浪川さんだった。

そんな姿がショックだったのか、

何に焦っていたのか、無意識に僕の脳は

「浪川さん!!!」と大声を出させた。


先生らしき人に「シー」と僕の口に指を当てられ、

「ちょっと待っててね」と言われた。

そこで、僕もハッと冷静になり、

「すみません」という言葉と

冷や汗の様なものが同時に出た。


別の病棟の病室に運ばれて行く浪川さん。

その姿をただただ見送ることしかできなかった。

茫然と力なく立ち尽くしていると、

数分後さっきの先生が僕の所に戻って来た。

「ちょっと、こっちに来てもらえるかな」

そう言って先生は歩き出した。

無言でついて行くと、そこは診療時間も終わり、

無人の待合ロビーだった。

小さな明かりが1つだけついている。

薄暗くなった、なんとも言えない不気味な空間だった。


「君が、俺くん、かな? 間違っていたら申し訳ない。」

先生が缶コーヒーを差し出しながら、

おもむろに口を開いた。

「えっ?!」

思わず、また大声を出してしまった。


先生は僕の表情を見ながら、

やっぱりそうだね。とニコリと微笑んだ。

「彼女から診察のたびに、話をよく聞かされててね。

多分、そうじゃないかと思ってね」


「あ、はい。」 と、とりあえず返事はしながらも、

はっきり言って意味不明だった。

 何故彼女は僕の話を? いや、その前に、

診察のたび?とは、どういう事だろう。

彼女は、この病院に通っていたって事なんだろうか?

「あ、あの診察のたびって・・・」

恐る恐る、聞いて見た。


「あれ聞いてなかったんだ。

んー君になら話しても大丈夫かな。

 彼女はアイザックス症候群という難病なんだ。」

急に眉間にしわを寄せて先生が喋り出した。

「きっと、こんな名前の病気は、

知らないだろうし、聞いた事すらないだろうね」


「アイザックス・・・ですか。」


「そう、アイザックス症候群」

「まぁ、君が知らないのも無理はないな。

日本でも、多分 百人ちょっとくらいしか

患者さんはいないのかな。

そして、発病原因も、確立された治療方法も

解明されてない難病に指定されている病気なんだ。


ぜひ君にも知っておいてもらいたいんだけど、

主な症状はね、手足の筋が痙攣したり、

「ミオキミア」って言って、

手足の筋がウェーブしてる様な感じになったり、

「ニューロミオトニア」って言って、簡単に言えば、

動かした後に元に戻せなくなっていまう、

そんな症状が出る。

焼け付く様な痛みが出たり、筋力が急激に低下したり、

突然、筋肉が固まってしまう。 そんな病気なんだ。」

「稀に記憶障害も引き起こす人もいてね。

彼女は、その記憶障害の症状も出ていてね。

申し訳ない、少し難しかったかな。」

先生は、とても分かりやすく説明してくれた。


「記憶障害ですか…」

突き付けられた現実があまりに突然かつ衝撃的すぎて、

先生が言ったことを鸚鵡返しすることぐらいしか

できなかった。

「他の人の話だと、

自殺だなんだって騒ぎが起きてるみたいだけど、

彼女はとても前向きに治療に励んでいたし。

おそらく防波堤で筋力硬直の発作が起きてしまって、

謝って海に転落してしまったんじゃないかと、

私は思っているんだけどね。」


「あ、あの彼女の容体は・・・」


「あぁ、一応 応急処置で、一命は取り留めたよ。

ただ、今回の事を、どれだけ覚えているかは、

ちょっと未知数だけどね。

まだ意識は戻ってないけど、

明日ぐらいには戻ってくれるといいんだけどね。」


「そうですか。」


「運ばれて来た時は、心肺停止状態だったからね。

とにかく僕らも必死で蘇生治療をしてる途中で、

何故か突然みるみるヴァイタルが安定していってね。

長年医者をやっているけど、私もびっくりしたよ。

20時半頃だったかな。顔色がスゥーっと良くなって、

通常時と変わらないくらいの数値に戻り始めて、

心臓も動き始めたんだよ。」


(え・・・?) もしかして・・・いや、確かにそうだ。

時計を見たから間違いない。

ちょうど僕が 彼女に

「いるよ」と、

願いを飛ばした頃だ。

なんだ?

なんなんだ? この不思議な感覚と出来事は。


あからさまな動揺を隠そうと、

「そうですか」と、

僕は同じ言葉を繰り返すだけだった。

しかし、彼女の意識はまだ回復せず、

いつになるか分からない とのことだったので、

その日は、帰ることにした。

まるで1ヶ月以上あったかの様な半日だった。


帰りながら僕は、(私がいない)という彼女のメールと、先生の言っていた「記憶障害」とい言葉を、

交互にブツブツと呟きながら、自転車を走らせた。


ただ、ひたすらに考えようとする頭と、

思い出せない様な感覚に悪戯され、

プラスマイナスの思考は、何も生み出すことなく

いつの間にか家に着いた。


それから、ご飯を食べたのか、

いつベットに横になったのか、

何も覚えてなく、寝たのかさえあやふやだった。

気がつけば、朝日が部屋に差し込んでいた。


日が明けた今日という日を、どう生きればいいのか、

こんなにも迷ったのは生まれて初めてだった。

過去に戻れたらいいとも思うし、

さっさと時間が過ぎ去ればいい、とも思った。

とにかく息が苦しかった気がする。

意を決して体を起こすと、

用意されていた朝ご飯にも手をつけずに、

また病院へと、自転車を走らせていた。


彼女は奇跡的に意識が戻っていた。

が、やはり自分の身に何が起きたのか

記憶はほとんどなかった。

ただ、昨日は正確には僕と会っていないはずなのだが、僕と会話をしたと言い張っていた。

なんども説明したが、聞き入れてはもらえなかった。

おそらく、その日、いや昨日の夜の時点から、

僕らの心はお互いを探し始めてたのか。


これが、僕と彼女の「救急車」という

不思議なワードでの繋がり。

三、忘れられた始まり


昨日の僕と、今日の僕は、違う僕。

ついさっきの僕と、今の僕は、どちらが本当の僕?


犯した覚えのない罪で親に怒られ、

買った覚えのない趣味の悪い服がタンスに入ってる。

言った覚えのない言葉のせいで、

クラスメイトは僕を変人扱いし、

奮った覚えのない勇気にお礼を言われる。


それが、僕の日常だった。


知らぬ存ぜぬでは済まされぬ昨今、

本気で知らないことは、分かりようがなかった。

知らない時間、知らない自分の存在も、

気がつけば、何とも気にも留めない日常となっていた。


いつしか下された診断名は

「解離性同一性障害」


最近ではドラマで、役柄として取り上げられたり、

実際の事件が起きてしまったり、とで、

僅かながら陽を浴び始めた病名だが、

当然未だ知らない人が多いのが現実である。

その昔は、多重人格と呼ばれていた事もある。

もしかしたら、そちらの方が多少馴染みもあり、

分かりやすいのだろう。

まぁ読んで字の如く。先に述べた現状の如く。

自分ではない別人格を併せ持つという症状だ。

それらと僕は幼少期の頃から共存している。

できるだけ悟られない様に、

日々の生活を送ってきたつもりでいる。

ある頃からは、情報の共有化のために、

意見ノートたるものを作っては、

お互いのことをよく知る様に努力した。

と言っても、僕の中だけの事ではあるが。


故に、自分も一種の記憶障害と言っても

過言ではない状態だった。

いや、過去形ではないな。

その状態をずっと引きずっているのだから。

だから、今の僕が僕として過ごしている時間はきっと、

他の人よりも断然短い。


こんな事を、いわゆる普通の人は、

頭では何と無く分かっても、

ちゃんとは理解できないだろう。

何しろ、本人が理解できていないのだから。


そんな奴が、まともな学生生活など送れるはずもなく、

生まれ育った地元の高校に進学したが、

解離した交代人格が暴れ回り、

自主退学を余儀無くされた。


周りの目もあってか、

居づらくなり「転勤」と言う名目のもと、

家族で今の所に引っ越してきた。

その事で、親にも弟にも迷惑をかけてしまった事は、

大変申し訳なく思う。

そんな事を経て、高校3年生になるタイミングで

彼女のいる高校へと編入してきたのだった。

なので、可能な限り、人を避けて生活してきた。

卒業してからも、変わらぬ生活の繰り返しだった。


これは、後から浪川さんに聞いた

彼女自身の生い立ちと病歴。

発症したのは、中学3年生の時の部活中。

バスケ部の練習試合中、倒れて動けなくなって

そのまま救急車で運ばれたらしい。


全く原因を特定できず、幾つもの病院を転々とし、

その中で、森咲病院の先生が、

大学時代に研究していた病気かもと分かり、

治療の為に、家族でこの近くに越してきたそうだ。

先生のおかげで、少しずつ回復し、

無理をしないという前提で、学業にも取り組め、

僕が入った高校に入学していたという訳だ。

同じクラスだった時は、そんな風な匂いは

全くしなかったし、微塵も感じさせなかった。

 ただ「活発な明るい子」

そう僕の辞書には刻まれていた。


もっとも、それは高校生活の中で、

僕が僕だった時だけの記憶にすぎないのだが。

それ以外は、知らない。

だから、彼女と接した事も、

ミジンコみたいな微量の記憶しか、

僕は持っていないのだ。

そう・・・彼女から、話を聞くまでは。

本当に、本当に、信じられなかった。

耳を疑った。何度も聞き直した。

彼女の記憶障害であって欲しいとも願った。

そんな事、彼女に悪いと口には出してないが。


そう、それは、高校を卒業する約4ヶ月前の話らしい。

僕は浪川さんと・・・いや、そんな事はない。

絶対間違いに違いない。全く記憶にない。


でも本人がそういうのなら、認めざるを得ないのか。

彼女は、僕の中の僕じゃない僕と、その・・・

とても仲のいい時期があったという。

お互いを意識し合う、いわゆる、そういう仲だ。

当時はまだそこまで記憶障害がひどくなかった彼女は、

残っている記憶を、僕に打ち明けてくれた。

だから、本当は・・・

あの日、海で再開した時も分かっていた事なのに、

その時は僕には話さなかった。

恐らく僕の病気について、

ほぼほぼ察しがついていたのだろう。

それか、僕じゃない僕が、

本当の事を彼女に話したのかもしれない。

でもそんな状態がいつまで続いたのか。

なぜ、心が離れるという結果になったのかは、

教えてくれなかった。


あぁ、この事は、彼女が病院に運ばれた次の日、

意識が戻った彼女と、いろんな話をした時に、

打ち明けてくれた事だった。

話の最後に彼女は、こう付け加えた。

「全部忘れちゃう前に。大切に大切に、

できれば覚えておきたいから。

ちゃんと俺くんの引き出しにしまっておいてね。」


頭が整理できない状態な様子がバレバレだったのか、

その時はそれ以上、彼女は話さなかった。

僕も「分かった」と返すのがやっとだった。


記憶はないけれど、僕の過去。

記憶はあるが、消えていってしまう彼女の過去。


事の行く末は、忘れられてしまう始まりが、

僅かながら今ここにある。

まぎれもないこの現実は、

二人に果てしなく非情なモノという他なかった。

本来ならば、何かを産み出し、

未来を変え、人の糧となる。

そんな出来事が、

まるで、何も存在していなかったかのように消滅する。

                                                                             

それが、本当の僕と彼女の忘れられた始まりだった。 


四、毎日が新たな始まり


彼女の容態は日に日に、悪化し

彼女は車椅子での生活を余儀無くされていた。

何かのきっかけで、数日間の記憶が

ごっそりと飛んでいく。

そんな事が度々起きていた。


ただ、決して自意識過剰では、ない事を祈るが、

僕の事だけは、比較的記憶が残っているような、

そんな気がしていた。

先生曰く

「そこに彼女のとても強い念を感じる」と。

きっと何か拘る物が、彼女の中にあるのだろう。


そして僕もまた、彼女と会っている時の記憶は、

全部残っていると、確信していた。

つまり、その時だけは、別の人格が出てきていない、

という事だった。

「彼女と過ごす時間」が、

僕の病気にとっての治療になっているのか

そんな風にさえ感じる瞬間が、垣間見える時もあった。


さて、成り行きでいつしか、

彼女の車椅子を押して散歩する、

という新しい毎日が始まっていた。

人と可能な限り関わらないで生きるという、

僕が貫いてきたものは、

彼女の心によって、あっさりと打ち砕かれていた。


誰かの為に、誰かの心に寄り添っていることが、

こんなにも心地よいと感じられたのは、

まぎれもなく彼女のおかげだろう。

ただ、彼女も同じ様に感じているかどうかは、

恐怖の神が僕を支配し続け、

どう足掻いても本人には聞けなかった。

兎に角 できるだけ、今のままが良かった。


願わくば、彼女の病魔さえも倒すことができれば、

それに越した事はないのだが。



朝、目が覚める。

今日一日を、病気にできるだけ打ち勝つ

そのためのお互いである、そんな一日を送ろう。

そんな事を暗黙の内に願い合い、毎日毎日が始まる。

最小限の症状だけで、また明日の為に

一日を終えることができる。

そんな闘いが毎日始まっては終わってゆく。


終わりもまた、始まりの1つである事を

共通の時間が噛み締めさせてくれた。



かつてのあの日、偶然か必然か、海で再会してから、

彼女の「枯れない涙はない」という秘密を

気がつけば、必死で考えていた。

今思い返せば、それが僕にとって、

僕の中の本当の僕と彼女の始まりだったのだろう。


僕らにとって何かを忘れる事は、

また新しい気持ちで向き合える始まりであり、

お互いの言葉が、確認と確信へと変化することに

気づかせてくれる、そんな新たな始まりだった。


いつしか、僕にとって彼女が、

そして恐らく彼女にとって僕が、

自分を再確認し、また欠落部分を埋め合える

そんな存在になる為の前準備とも言える

新たな毎日を始めるのであった。

五、「世界の秘密」が覆され始める。


出会ったばかりの彼女は、

きっと落胆し、絶望し、呆然とし、涙を流し続ける

そんな毎日を送っていたのだろう。

泣いても、泣いても、涙髪が頬を伝うという

エンドレスな繰り返しを。

それが、彼女にとって現実であり、

真実であったからこそ、

「涙なんて枯れない」という言葉を

発せさせたのだろう。


実の所、彼女にそれを知らされてから、

実際に涙こそ流さないものの、

自分の症状や苦しみに、

心はひたすらに泣き続けていたことに気付かされ、

彼女の言った言葉もまた真実かもしれないと、

自分自身信じ始めていた。


彼女との接点もまた、自分に涙を流させる。

小さな要因の1つとして名を連ね、

一番避けてきたはずの、

他人が自分の感情に影響を与えるということに、

いつの間にか、引きずり込まれていた。


しかしそれは彼女もまた変わらず、

僕の病状を気に病んでは、

自分が何もしてあげられない事で自分を責めていた。

そんな事をどちらかが、ボソッとこぼせば、

「そんな事ない!」と口を揃えて必死に否定していた。

彼女との生活がどれくらい続いた日だったか、

例のごとく、「「自分のせいで」的なやり取りを

繰り広げていた時に時に、突然

彼女が俯きながら小さな声で言った。

「あのさ・・・」

「どうした?」

いつも様に言い返してこないので、調子が狂った。

また、どこか具合が悪くなったのかと、

一突きの緊張に刺された。

「あ、ありがとう」

やはり俯いたまま、そんな言葉がこぼれてきた。

「え?」

突然すぎる事で、正直困惑した。

今、僕は何か礼を言われる様な事はしてないし、

たぶん言ってない。

改まって言われると、悪い事してないのに何故か焦る。

「今、なんて…」

思わず聞き返してしまった。

全く想定していなかった事だったから

返事にとても困った。


「だから、ありがとうって言ったの!」

「なんか恥ずかしいから、何度も言わせないで」

一瞬目元が光った様に見えた。

必死で涙を堪えてるのが手に取るように分かった。

彼女の顔は、今まで見たことがないくらい

紅く染まっていた。

そう、まるであの日に見た夕陽の様に。

「あ、うん」

何が?とか、どうして?とか色々聞きたかったが、

それ以上、僕は何も言えなかった。

今は聞かないでおく。そう頭が言っていた。

数分の沈黙の後、何事もなかったかの様に

「晩御飯のお買い物、いこ?!」 

もう彼女は笑顔だった。 


それからの時間は、またいつも通りの毎日を

ただ繰り返しているだけだった。

いつも通りの毎日を過ごすことができる

そんな有り難さに気がつくのは、

もっとずっと後のことなのだが。

ただ、今思えば、どちらもあの時を境に、

あまり涙を流さなくなっていったのかもしれない。

彼女は、何かを心に確信していき、

僕はそれが何かが分からずのままだったが、

決して悪いことではない事だけは、

彼女を見ていれば分かる事だった。


僕も彼女も、互いに酷く悪くなる事もなく、

此れと言って、歴然と快方の光がさす訳でも無い

そんな日々の繰り返しで数年が過ぎた。


そんなある日。そう20代もあと数年で終わりを

迎えようかと言うそんな頃だった。

久しぶりに、二人であの海に夕陽を見に行こう

と言う事になり、ゆったりと、散歩をした。

実は彼女が落ちたあの事故以来、

二人ともトラウマなのだろうか、

あの場所へは、ぱったりと行くのを

やめてしまっていたのだった。


よく通った道を抜け、あの頃と同じ時刻。

近所の建物こそ、多少の違いはあったが、

僕たちを待っていてくれたのは、

間違いなくあの時の夕陽だった。

しばし、真っ赤に染まる空に見とれていると、


「お・れ・く・ん」

彼女が軽く舌を出しながら、笑っている。

なんとも意地悪な笑顔だった。


「なんだよ。」

とうに忘れた呼び方で呼ばれものすごく照れ臭かった。

「ねぇ、覚えてる?ここであった時に私が言った言葉。」


「あぁ、覚えてるよ。

[涙は絶対なくならない]だっけ?」

あえて少しだけ間違えて見た。


「んん、惜しいな。ちゃんと覚えてないじゃん!

これだけは、私覚えてるんだから。

[どんなに泣いても、涙は枯れない]だよ。」

「本当に?」

「ん、多分…」彼女は一瞬、あれ?っと

焦った顔をしたが、すぐに自信に満ちた顔に戻った。

「間違いない。だって私が考えたんだもん。」

「だろうね。そうだとは思ってた。」

あえて全部知ってる感満載で答えたが、

彼女の反応は予想と違った


「でもね・・・ちょっとだけ違ってた。」


「え?」あの時、彼女に言われてから、

今までそれなりの時間をかけて、

その意味を考え続け、それなりの結論を見い出し、

僕も同じ様な思いになっていたから、正直驚いた。

「違うの?」 純粋に、どこか裏切られた様な

モヤモヤが、僕を支配し始めた。

でも、それも次の彼女の言葉で、

綺麗に取り払われたのだった。


「うん。ちょっとだけね。

今まで、いっぱい泣いたよ。

もう何リットルか分かんないくらい、いっぱい。」

と、彼女は静かに話し始めた。

「病気が分かった時。

辛かった高校生活を支えてくれた貴方が

病気だったって分かった時も。

私との事も覚えてなくて

そのまま高校生活が終わった時も。

誰も私の病気の事なんか分からないって思ったり、

もう元気になれることはないんだって落ち込んだ時も。

ずぅーっと悲しい涙ばっかり流してた。

だから、どんなに泣いたって、

次の悲しいことでまた泣いちゃうから

枯れることなんて無いんだ。って、そう思ってたの。」


「そっか…」

彼女の今までの辛いことや、苦しいこと、

悲しいことや、悔しいことが、

僕に胸に直球でぶつかって来た

そして、何よりもそこに自分の事が含まれていた事に、

物凄く罪悪感と心の痛みを感じた。

あんな事を結論付けた原因に自分が含まれていた事に、

居た堪れなかった。


「でもね…」

僕の落ち込みなど御構い無しに彼女は話を続けた。


「あの時、ここで会えた事、

その時に私の事を覚えてくれてた事。

ほんとに覚えて欲しかった事じゃなかったけどね。

えへへ。

それからの貴方との時間、貴方の思い、

思い出せなくなっちゃった事もあるけど、

心がちゃんと私に伝えてくれてる優しい光、

崩れそうな崖に独りで立ってるみたいに不安な時に、

包んでくれる貴方の声。

私のこの病気と一緒に闘ってくれる。

だから、私も貴方の病気と一緒に闘う。

その1つ1つが、とても新鮮で、有り難くて・・・」


「だからね、悲しい涙より、

嬉し涙の方が今はいっぱい!」


そう、声を震わせながら、精一杯に虚勢を張った

彼女の目には沢山の涙が溜まっていた。


「あの時は、悲しい涙の事しか、考えてなかった。

正確には、考えられなかった、かな。

でも、涙には嬉し涙もあるんだなって、

貴方に教えてもらった。

だから、少しだけ間違ってたなって思って。」


一生懸命に話してくれている。

そんな空気を深く吸い込みながら、僕も口を開いた。


「そっか。なんかうまく言えないけど、

嬉し涙を流す様な事、してあげられたつもりもないし、

できてる自信もないけど、

でもそう思ってくれてる事知れて、

僕はもっと嬉しいよ。

最近、ある事に気がついて、

いつ話そうか迷ってたんだけど、

きっと話すのは「今」の様な気がするから、話すね。

お互いに病気があって、

僕なんか全然不十分な人間だと思うけど、

僕らだから、補合える穴も実は結構あるのかな、って。

いわゆる普通の人の比べたら、

あげられるものが少ないかも知れないけど、

正直、自分独りで自分の病気に立ち向かっていたら、

とっくに倒れてしまっていたと思うんだよね。


君の病気に立ち向かって、

おこがましいが、君の病気と僕が闘う事で、

僕は、自分の病気を知らずと

乗り越えてこれた気がしてね。

もし同じ思いを持っていてくれてたとしたら、

ちゃんと正式に一緒になりたいと思っているんだ。


どうかな?自分勝手かも知れないけど、

これからもずっと君の病気と闘わせてくれないか?」


ここ最近考えていた事が、決してまとまる事はなく、

言葉になって溢れ出した。

それが、僕の本音で、僕のケジメで、僕の本気で、

正解なんてない人生の、僕の答えだった。


「それ、って・・・」

彼女は驚きと戸惑いを隠しきれずに、また涙を流した。

それは悲しみの涙なのだろうか?嬉し涙なのだろうか?

僕も、きっと彼女もわからなかった。

でも、心の連絡橋が増えた様な、

何か大きな階段を1つ上がれた様な気がした。


しかし、乗り越えなければならない壁は、

まだまだ大きかった。

本人達の意思だけで、人は生きていない事を、

思い知らされる事となった。


僕も彼女も、医者や薬や、

何よりもそれぞれの家族の助けと

協力なしでは、日々の生活すら、

ままならないのが現状だった為である。


斯くして、世界の秘密は、僕たちの時間の流れと共に

より確実なものとして確立されて行った。

最も「世界」と言えども、

二人だけの世界に限ったことである事は

誰の目にも明らかなのであるが。

六、現実と思いと願いとの闘いの始まり


彼女がこれからを、どう生きたいかを確認するのに、

それほど時間はかからなかった。

それは、僕と対して変わらなかったからだ。

しかし、二人ともいい歳になったとは言え、

当然それぞれに家族がいて、

報告という形で、許可ゆるし

得なければならないのは、

誰もが同じ道を通る訳で、僕らとて例外ではなかった。


ただ・・・そこの壁がひたすらに高く感じた。

彼女の家族とは、何度も会っていたので、

人見知りの強い自分だったが、

今はさほど抵抗を感じてはいなかった。

問題というか、事前に解決しなければならない諸要素は

山のようにあった気がする。

何と言っても、一番の大きな山は、僕と彼女と、

両方の親からの強い反対を受けた事だった。

どちらの親も、行っている事は、だいたい同じだった。


・自分が病気を抱えながら生きている

という事を、きちんと理解しているのか。

・その事が相手や相手の家族に、

どれだけ迷惑や影響を与えるか考えてるのか。

・今の状態で、どうやって生活を守って行くのか

(これは、養うという意味でも、家事をして行く、

という意味でもどちらにも当てはまる事だった。)

・自分が選んだ人と生活をするな、幸せになるな、

という意味で言ってるのではなく、

普通の人以上に背負わなきゃいけないものが、

大きすぎるから、お互いがその身で

それを乗り越えていけるのか。

 などなど。


結局どちらの家でも、

「分かりました。よく考えてきます。」

とだけ言って家を出てきた。

帰り道、ポツリと彼女が言った。

「やっぱ、ダメなのかな・・・」


「ごめん、僕が変な病気持ってるせいで…」

「違うよ。私が難病なんか患ってるからだよ…」

そう言うと、お互いに黙ってしまい、

沈黙のまま帰路についた。

結局、お互いに自分を責める材料を

作るだけになってしまったと

僕は、彼女に言ったことを、少し後悔していた。

余計なストレスは、病状を悪化させる。

十分すぎるぐらい、分かっていたことだった。

案の定、二人とも数日の間、

床に伏せることになってしまった。


僕は、たった一人の人の力にもなれないのかと、

強い自責の念に駆られた。

もし実現できたらいいなぁ、

ぐらいにしか考えてなかったのだろうか。

どちらの親からも、あんなに強く反対されるとは。

自分でも予想以上の反応に戸惑いがあった。


このままでは、答えが出せないし、納得もできない。

そう感じた僕は、彼女にある提案をした。


「ねぇ、またあの海に行ってみようか?」

「うん、いいよ。」


彼女の体調を考え、タクシーを呼んだ。

もし大丈夫そうなら、帰りは歩くとしよう。

いつもの場所に着くと、

ちょうど陽が沈み始める頃だった。


僕が話し始める前に、彼女が先に口を開いた。

「太陽はいぃーなぁ。」

「なんで?」

唐突に何を言い出すんだ・・・

「だってね、顔真っ赤にしてさ、

消えてしまいたいくらい落ち込んで、

沈むだけ沈んで、目の前真っ暗になっても、

次の日には、とーっても明るい顔で、

ちゃーんと登ってくるんだもん。


私は、沈みっぱなし。

上に這い上がってもこれない。

いつまで、私このままなんだろ・・・

最期までずっとかな。」

そう言うと、大粒の涙をこぼした。

間違いなくそれは、悲しみの涙だった。


「あのさ・・・俺。 俺、考えたんだけどっ」


「あ、俺くん、久しぶりの登場〜」

彼女の顔が少し和らいだ。

もちろんそんな意図はなく、

一生懸命の背伸びが、

昔の癖を呼び起こしただけだったのだが。


「やめなさいって。」やっと二人に笑顔が戻った。


「お父さんも、お母さんも、弟たちも、

みんな心配なんだろうなぁ。って。

僕らのこと、本当に考えてくれてるから、

これ以上、いらない苦しみとか悲しみを

背負って欲しくないって。

今まで十分、病気で苦しんできてるから、

それは、家族も同じだけね。

それなのに、こんな不十分な二人が

一緒になるって言い出したんだから

もっとよく考えなさいって、そりゃ言うよね。


僕らより、長く生きて、多く経験してるからこそ、

これから先に待ち受けてるだろう、

多くの困難も知っているからね。

その体で、本当にやれるのか?って事だと思ってさ。

そう言われたから、改めて考え直すことができた。」


「え… この話、なかったことにしちゃう、の?」

彼女は震える唇をキュッと噛み締め、

その先の話は聞きたくないって言う目で

僕に訴えてきた。


「あはは、違うよ。その逆!」

「逆??」

「そう。逆。改めて考え直して、

それでもやっぱり認めてもらおうって思った。

確かに、大変かもしれないよ。

僕のせいで、病弱の君にだって

迷惑をかけちゃうかもしれない。

普通の人同士の何倍も辛いことがあるかもしれない。

どんな大変なことでも、

辛いことでも、

悲しいことでも、

苦しい量は減らないかもしれないけど、

一緒にいることで、

一緒に乗り越えられる量は増える気がするんだ。

二人で一人分、生きれたらって。

だから自分勝手かもだけど

二人が一緒になる意味がある、ってそう思うんだ。」


「ほんと自分勝手・・・これじゃ俺くんじゃなくて、

俺様だね!」

少々ご立腹気味に彼女は後ろを向いた。


「ご、ごめん、怒った?」


すると彼女は振り返り、瞼というダムが崩壊寸前な程、

涙を溜めた目で少し微笑みながら、こう言った。

「私も同じ事、考えてた。

そしてここで、同じように話そうと思ってたのに。

先に言いやがって、この自分勝手のばかー!」


お互い、同じ結論に達していた。

ただ、その事を喜ぶよりも、

彼女が怒ってなかった安心の方が、先に出てしまった。

もう一度彼女の顔色を見た。


(大丈夫。怒ってない。)

沈みゆく太陽は、明日も頑張れ、と

僕らの背中を押してくれているかの様だった。


さてさて、こんな浅い考えで、

親が納得してくれるかどうか。

一抹の不安を抱えつつ、僕も彼女も、

「願いも 決意も 見据える未来も 同じ共通項を持つ者」

として、話に臨む姿勢は、毅然としていた。

と思う。

結局、何をどう話したのかすら覚えてないが、

そんな僕らの決意が、どう伝わったのか、

どちらの親も、とりあえず認めてくれた。


ただし、条件はついた。

・車で30分圏内に住む事

(今までの病院も変えない為)

・通院には、必ず双方か、親が付き添う事

・まずお互いの健康状態が最優先。メンタルも含めて。

・できる限り互いの記憶の穴を埋め合う事

・両人が同時に具合が悪くなる事も当然考え得るので、遠慮なく、すぐに親を頼ること など。

他にも、色々言われた気がしたが、

申し訳ないが、あまり良く覚えてない。

どちらにしても、病気に関する事がメインだった。

これを機に、僕は、なんとか資格が取れた

ガス管の点検技師の仕事を辞め、

早めに家に帰れる様にと、

ゴミを回収して回る仕事に転職した。

贅沢をしなければ、特別生活に支障はないだろう。

治療費を稼ぐ必要性も、もちろんあったが、

「何よりも僅かな異変にどれだけ早く気付けるか」

が、キーポイントだったので、迷いは微塵もなかった。


こうして、彼女・浪川さんは、

僕と同じ名字の人となった。

因みに、親戚と極々親しい友人に、

ご報告の手紙のみで

式は挙げない、という事に二人で話して決めた。


こんな僕にも、彼女のおかげで

家族を持つことができた。

そんな掛け替えのない存在に、

出会えるという予想と予定は、

僕の中になかったのだが。 


これは、僕にとって

何回目かの生き方が変わる始まりだった。



七、僕の病気の始まりと経過


この辺で、記録の為にもう少しだけ

僕の病気についても残しておこう。

注意書きとして、先に述べて事柄も含めて、

ここに記す全てが僕の記憶の中にある訳ではない。

大半が、のちに人から聞いた事だったり、

診断の結果、恐らく、こういう事だったのだろう。

と結論づけた事である。


いつから発症しているかは不明である。

幼少期の頃には、と推測され、原因もまた不明である。

身体的な症状としては、

突如として訪れる頭痛や吐き気と、

場所は特定されない局所的な激しい痛みなどだ。

その場でうずくまったまんま

しばらく動けなくなる程の強いものだった。


そして一番厄介なのは、何と言っても解離症状だ。

今までの延べ人数で言ったら、

もはや何十人か分からないほど、

多くの人が、いや多くの人格が僕の中に

存在しては消えて、を繰り返す。


1度しか現れていない人格もあれば、

ずっと存在し続ける人格もいる。

それぞれが、性格も考え方も得意な事苦手な事も、

そして性別も、てんでバラバラな人格が、

一個体の自分の中に無数に存在し

交代時は、記憶もまた切り離されるのである。

幾つもの病院を渡り歩き、幾つもの病院で断られ、

その度に治療方針は変わり、薬も変わり、

増えたり減ったり。

そんな中でも、今の病院は

一番長く診療していただけてる場所だろう。


未だ世界的にも治療方法が

確立されている訳ではないので、

二重丸の正解に、辿り着けている訳ではないが、

医療とは素晴らしいもので、

それなりの回復(?)も見え始めている。


一番の大きな収穫は、

何と言っても記憶の部分だった。



いつしか、交代時の別人格の記憶が、

メインの人格に戻った時に、

徐々に遅れてではあるが、スライド写真の様に、

流れてくる事だった。

そのおかげで、別人格時の出来事も

多少自分で知る事ができた。


その上で、交代人格それぞれが

カウンセリングを受けるという荒技で、

そもそも変わらなくてもいいんだ、

ということを理解させ、

少しずつ1つに統合していく。

そんな治療をしばらく受け続けた。


功を奏しているのかは、

正直自分では分からないが、

彼女曰く、「全然違う」そうだ。

これは、二人の生活を

守っていかなければならない僕にとって、

大きな隅石となっている。


ただ、いつ発作的に人格が変わるのか、

どんな人格が出るのか、

いつ身体的症状が酷く現れるか、

とてつもなく大きな爆弾を抱えながら

生きている事に代わりはない。


そんな自分の病状が要因で彼女の病気が悪化する

ひたすらそれだけは避けたいと強く願う毎日だった。

この病気に自分自身が気づいたのも、

彼女と同じ中学校3年だった。

本人ですら、どれが本当の自分なのか、

分からなくなってしまい

自心の樹海で遭難し続けてきた。

そんな頃からずっと1つの言葉が僕を支配している。



「僕は僕だけど僕じゃない」



昔の荷物を整理していたら、

落書きのようなものが出てきたから、

参考程度にここにも残しておこう。

恐らく高校卒業辺りの頃のものだろう。

何となくその頃の僕自身と交代人格たちが

どれだけ彷徨い続けたのかが、

少なからず伺い知ることができるだろう。


僕は僕で僕じゃない


僕は誰かと話している 独りで

僕は僕と話している たぶん独りで


僕は僕の記憶が無い 名前は違う僕の記憶

僕は僕独りじゃない ただエリアが違うだけ


僕と同じ僕はいない 僕は僕で僕じゃない

一体誰が僕なんだろう

いつから僕は僕じゃないんだろう

僕は僕で僕じゃない

だから僕がいなくても きっと誰も困らない

何のために造られた僕なのかさえ、

分からないのだから。


普通ってなんだろう。普通の人間とは。

どの僕が普通の僕なのか?

僕はそれを感じるコトができない


今日も僕が僕を痛めつける

そして僕は疲れ果てていく

全てを終わらせたい。痛みも、要らない僕も。


僕が僕を造って 僕が僕を消す

それを繰り返してきた

だから 

僕は僕で僕じゃない


僕は僕で僕じゃない

僕は何にでもなれる、空気にだって

だから、僕は僕を空から観れる

僕じゃない僕を。


君を生まれる前から知ってるよ

大きな戦争が始まる、ずっとずっとずっと昔に

僕は小さい子供だった、そして君も。

ほんの短い間だったけど、毎日ずっと一緒にいた。


だけど離れ離れにされてしまった。

けど、最期に君が言った言葉を僕は覚えてるよ。


またいつか逢いましょうって

だから、僕は信じてる

君が僕じゃない僕を見つけに

会いに来てくれたんだって。

本当の君に触れられたら

きっと本当の僕を全て思い出せるはず。


でも、まだ

僕は僕で僕じゃない。


僕は眠るのが怖い

また僕で目を覚ますことができるか分からないから。

目を覚ましたら君がいないかもしれないから。


僕はただの臆病神だ。

だから僕じゃない僕が頑張るしかない

けど君の疫病神にはなりたくない

だって、やっとまた逢えたから


僕じゃない分から僕は僕を独りにした

僕が出て来れないように 僕に代われないように

僕じゃない僕は僕の記憶を隠す

僕が壊れてしまわないように辿る道さえない


今の僕は本当の僕なんだろうか?

僕じゃない僕が作った僕

きっと誰にも違いは分からない

僕じゃない僕がいなかった頃の

僕を知る人はいない


僕の中の僕じゃない僕が、

一から僕を作っている。

他の僕じゃない僕が暴走しないように。


どれくらい保てただろうか?

今、僕じゃない僕が僕の中で騒ぎ始める。

他の僕じゃない僕が僕になりたいと。



もう一度、言っておこう。


僕は僕だけど僕じゃない



ここに出てくる君は、浪川さんの事だったのだろうか。

今となっては分からないが、

実は、彼女の(私がいない)という言葉が、

僕の持ち続けているこの言葉とシンクロして、

その頃から何か運命付いた物を感じていた事は、

彼女も知らぬ過去の事だが。


きっと僕は死ぬまで、

この言葉からは逃れられないのだろう。


「僕は僕だけど僕じゃない」


「僕は僕だけど僕じゃない…」






八、奇跡の始まり


さて、話を元に戻そう。

そんなこんなで新しい生活が始まった訳だが、

最初に二人で約束事をした。

なんとか、できるだけ多くのことを

二人でこなせればと考えた物だ。



 約 束

一、絶対に無理をしない事

二、自分の事でも、相手の事でも、

少しでも体調の異変に気が付いたら、すぐに言う事

三、家の事は、どちらの負担にもならない様、

必ず二人で一緒にやる事

四、どちらの病院も、必ず付き添う事

五、1年に1回は、遠くなくていいから、旅行に行こう

六、病気故に、できない事があっても自分を責めない事

「自分のせいで…ごめん」という発言はしない

七、1日1回は手を繋ぐ事

八、やらなくて後悔しそうな事は、

力を合わせてでも、とにかく、やってみよう

九、昨日の事よりも、明日の事を考えよう。

十、とにかく、いっぱい笑おう。

こんな十ヶ条を二人で作った。

病人同士が二人で生きていく為の、

そんな約束だった。


もちろん話し合って決めたが、

僕にとって、二人が5年後、10年後

歳をとって言った時に、

どうだったら幸せかを考えて決めた。


けじめや決まり事は、

時として人を成長させ強くする。

その証拠に、あの時から彼女の病状は進行が遅くなり、

僕自身のメンタルも落ち着きを見せる事が増え、

互いに笑顔の時が増えて行った。


僕らが下した決定は、

決して間違いではなかったと確信し始め、

怖いぐらいに、順調な日々が過ぎて行った。

だが、順調な日々というのは、

思っている以上に過ぎるのが早く、

辛く苦しい日々というのは、

あまりに1日が長く感じるもので、

気がつけば、あっという間に

1年が過ぎようとしていた。


本当に、此れと言って大きな問題が起こることもなく、

親にも、これで良かったのかも知れないね、

と言ってもらえるぐらい

今までのことを考えると、奇跡の様な1年だった。


お互いが、自分の病気の為の薬となって、

相乗効果としての結果だと。

これこそが共に生活をする意義だと、確信していた。


何の為に生きるのか? そう自問すれば、決まって

明日も彼女の笑顔を見る為、と答えが返ってきた。


そんな折、ある日の夕食で彼女が

突然こんな事を言い出した。

「約束にもあったでしょ?

1周年記念で、旅行に行かない?

 しかも、頑張って1泊したい!」

何日も悩んで、駄目だと言われるのを覚悟で、

勇気を出して言ってきたようだ。


(なるほど、最近何やら真剣に携帯と

にらめっこしてるかと思っていたら、

そんな事を考えていたのか。)

お互い1年頑張ってきたご褒美として、

頑張ってみようと僕も思い、

二人で、あれこれ計画を立てることにした。

行動範囲も気候も、無理のない範囲で。

幸い車で小一時間の所に温泉もあるので、

小さな民宿に事情を話し、協力してくれる宿を探した。


特別な事はしなくていい。

何より旅行に行く、という事が特別だったから。


お互いの主治医にも相談し、

何かあった時の緊急体制だけは整えた。

周りの心配をよそに、一番楽しみにしていたのは

当然言い出した彼女だった。

もちろん僕も楽しみで、

あれやこれや必要なものは何かと、

調べては、買い込んだりしていた。


僕の仕事の休みと、

宿の対応可能な空室具合を考慮した結果、

ちょうど1年の記念日に、予約を取る事ができた。

それが決まった時の、彼女の涙は、今でも覚えている。

それは紛れもなく嬉し涙だった。


彼女が、涙はかれる事はないけど

流すなら、嬉し涙がいいと言っていた、

その嬉し涙だった。

それから、カレンダーでカウントダウンするのが

僕らの日課になった。

彼女は着ていく服が買いたいと、初めて我儘を言った。

その日が来るのを、二人心待ちにしていた。

 

ある時まで、は。


9、ゼロへの始まり


カレンダーのカウントダウンは、

後7日という所で止まった。


15時過ぎ

いつも通り仕事から帰ると

ダイニングで車椅子の前に倒れている彼女がいた。



もう、

その時は


すでに。



僕の時計の針が止まった瞬間だった。

その後の事は、あまりよく覚えていない。

通行止めの道路のように、

その記憶へのアクセスは拒否され続けている。


おそらく何とか正気を取り戻して

救急車を呼んだのだろう。

救急車を呼ぶも虚しく、

心肺停止が病院にて確認された。


彼女を長年診てくださった鎌田先生と会った。

聞きたい事は山積みだったが、

何をどう話していいのか分からず黙っていると、

先生が僕の目をしっかりと見て口を開いた。

「彼女、最期は苦しんでませんよ。」

「え?」

僕の心を見透かしたかの様に、

一番気がかりだった事を、単刀直入に答えてくれた。


「いや、多分あなたのことだから、

そこが一番気になっているんじゃないかなって思って。

自分がいなかった時に、どれほど苦しんだのか、

気に病んで自分を責めちゃうタイプっぽいから。」


いやはや恐れ入った。先生には何でもお見通しだった。

そして、彼女の最期の声を、先生から聞いた。

「以前にもお話ししてありました様に、

基本的には、手足の筋肉に硬直等が現れるんですが、

時折、心臓発作の様にそれが心臓などに現れる

といったケースも世界では、みられています。

全く原因は解明されていませんが。

その数少ない症例の殆どが、

体の機能全てが突然ストップして

息を引き取られています。

事実、彼女が苦しんで、首や胸を引っ掻いた様な

生活反応は出ませんでしたから。


この病気を全く知らない先生が見れば、

「突然死」と診断されてもおかしくない所見です。


でも、ここ最近の彼女は、本当に幸せそうだった。

車椅子生活ではありましたが、発作も殆どなく、

このまま本当に治るのではないかと、

私まで少し期待させられた程、

彼女の生きるという強い意志が、

伝わってきていました。

本当に残念です。

そして肝心な時にお力添えできず大変申し訳ない。

医師として難病と立ち向かう難しさを、

痛感させられました。」

そう言うと、先生は涙を流しながら

深々と頭を下げた。


「いえ、本当に長い間お世話になりました。

先生の御尽力は、私もそばで見させていただいて、

存じ上げているつもりですので。

むしろ感謝しかないです。ありがとうございました。

今、僕の中で彼女の全てをしまっておける

スペースがちょっといっぱいなので、

また改めて少しずつ教えてください。

また来ても構いませんか?」

何とか、絞り出した心の声だった。


何も考えたくない思いと、押し寄せてくる思いと、

溢れ出してしまいそうな感情と、働かない頭脳と、

とにかく、僕の中は混沌の嵐に見舞われ、

まさに「無理」という答えが、

的確な表現だったのかもしれない。


先生は何も言わず、

ただニッコリと笑顔で答えてくれた。

また深々と頭を下げ、

病棟の奥へと消えていった。


涙は、

あまり出なかった。

何が何でも、出したくなかった。


枯れない涙が、悲しみの涙で埋まってしまうから。

きっとそれは、彼女が望むことではないと、

勝手に思っていた。

ただ・・・


ただ、本当に今までありがとうと、

感謝の涙をふた粒だけ、

白い箱に、入れられた彼女の頬に置いてきた。


最期のふたが閉められる時、

彼女の声が聞こえた気がした。

それはあの時海で再開した時の

彼女の声そのものだった。


「俺くん!」


きっとこれから先 僕が死ぬまで、

この声は聞こえ続けるのだろう。


不器用で、無才能で、ついてない僕の人生の

たった一つの華だった。

足りない部分をあげたら、キリがないかもしれないが、

それでも、僕は彼女の為に生きたと、

これだけは胸を張って言える。

いや、言わせてほしい。せめてそれぐらいは。


「自分を責めないでね」

会う人会う人に言われた。

言われる度に、もっとこうしていたらと、

後悔の波が思う押し寄せてきた。

でもその度に、心に彼女の声が聞こえた。

(自分を責めない。

昨日より明日の事を考える!

約束忘れたの⁈)

一日に何度も家で「はい。」と答えている。

今も変わらず心の中で生き続ける彼女と、

ずっと暮らして行くのだろう。


結局、旅行には行けなかった。

カレンダーのカウントダウンも、あの時のまま。

僕の時計は、止まったままになった。

僕じゃない僕に、

背負いきれないほどの哀しみを託し、

彼女の鼓動が今にも聞こえてきそうな、

あの部屋で暮らしていた。

これを書こうと決めた今日という日まで。


現実という時代の流れは、

非常にも人の人生を無理やり車線変更させる。

僕が大切に守り貫いてきた物は、

以外にも、脆い物だった。

つまりは、この部屋は、

都市開発の為に取り壊されることになり、

退去を余儀なくされた。

可能であれば、ここで自分の人生をも全うしたいと

思っていたのだが、叶わぬ夢となってしまった。

彼女が笑った、あの部屋も

彼女と泣いたあの部屋も

彼女が歩みを終えたあの場所も

間も無く道路になる。


それもまた人生なりと、自分に言い聞かせている。

僕もまた、人が生きた上を歩んで

生きてきたのだろうから。

そしてまた、僕が生きた上を歩む人に

未来は託されていく。

どうか、彼女の生きた時間を、

彼女の流した涙を、

病魔に奪われた命を、

無駄にしない未来が、

たくさん生まれます様に。


ちょうどあの夕陽のように沈み、

闇の後には、必ず朝という光が生まれるように。




十、終りもまた、始まりの1つ


こうして彼女の一生と僕の半生は終わった。

1つ終わる事で、別の何かが始まる。

人生なんてものは、それの連続だ。


彼女と生きる日々が終わって、始まるものは何か。

今は、明言する事はできないが、間違いないことは

僕が、これから命ある限りに生きていく事が、

彼女が紛れもなくここに生きた証し

となってゆく事だろう。


僕は、もう誰の人生も背負うつもりはない。

君を抱えたまま、静かに眠りたいと思うから、

そう決めた。

斯くして、僕の病気はその後治る事はなく、

今こうして僕の命もおそらく近いうちに、

尽きようとしている今日まで、僕を苦しませ続けたが、

彼女との約束と、何よりも脳に響く彼女の声が

何とか僕を生きながらえさせた。


「僕は僕だけど僕じゃない」は、いつしか

「僕は僕だけの僕じゃない」に変わっていた。


彼女を失った残りの半生も、彼女の為に生き続けた。

僕にとっては、あやふやな記憶というものが、

少しでも残っているうちに、ここに記すことにする。

足りない部分は、またあの海に行って

思い出させてもらう事としよう。

そして、僕じゃない僕にも伝えてもらおう。

どれだけ、僕が分割にされようと、

どれだけ違う道を歩ませようとされても、

きっと、きっと彼女と僕は、

同じ線路を走る事になっていただろう。

互いの記憶の中に、二人は存在し、

欠落してしまった記憶は、

双方の存在により確率されていたのだから。


そうする事で、彼女は自分を見つけ、

僕は、僕であり続けることが、少なからずできた。

それはまぎれもない、一つの証拠であり、

真実の過去であり続けるだろう。

この手記により、似たような病気と闘う多くの人が、

少しでも、何か生きる力を得ることが

一つでもできれば、と そう願います。

僕も、そしてきっと彼女も。 

全ての事に、笑顔と感謝を込めて。 Fin




愛する妻へ、ここに捧ぐ。


豊橋 杏子 (とよはし きょうこ) 旧姓:浪川

享年 29歳

アイザックス症候群における

急性心筋梗塞および全身硬直により急逝

結婚生活358日目の突然の出来事により

帰らぬ人となる。


夫 豊橋 雅治 (とよはし まさはる)

幼少期より解離性同一性障害を発症。

成人後、発達障害による解離症状と判明するも、

症状は、さほど変わらず。

妻との死別後は、一人で生活している。



本人の強い希望により記録者として・・・

弟 豊橋とよはし 大聖たいせい


取材協力

森崎病院 名誉院長 

逢沢 治 (あいざわ おさむ) 先生


メンタルクリニック アルーン 

朝海 陽司 (あさみ ようじ)先生


西出雲町の皆さん


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