13 カンパニュラ
ラングレー家から家に戻ると、フィオナはまずエレノアに抱きついた。まるで子供のようなその行為にエレノアは至極驚いたけれど、何も言わないままのその背中に手を回して、抱き締め返した。玄関ホールでのその出来事に、使用人さえも驚いて思わず仕事の手を止めてしまった。
結局、執事であるロージンが咳払いをするまでその抱擁は続いた。フィオナが名残惜しそうに離れると、エレノアは微笑む。その笑みが、ラングレー家で見たフィオナの微笑みに似ていて、近くに居たアルテリアは目を開いた。
「お母様、今日まで本当に、ごめんなさい、そしてありがとうございます」
「ふふ、まるでお嫁にでも行くみたいな言い方ね」
「それはまだ、先だと思うわ」
「そうかしら」
苦笑いして肩を竦めるフィオナに、エレノアは意味深な笑みを浮かべてアルテリアを見た。不思議そうな表情の姉とは対比的に、弟もまたにんまりと笑みを浮かべた。
「案外すぐかもしれないよ」
「アル?」
「こっちのはなし」
そう軽く言うと、アルテリアは自室に向かうため階段をあがっていった。残されたフィオナとエレノアは少しだけ顔を見合わせて笑うと、二人で談話室に向かった。二人とも、話したいことがいくつもあった。
「貴女は昔から、我慢強かったわ。本当にわたくしの娘かと思うほどに」
「そうかしら……」
「そうよ。アルテリアが生まれたばかりであまり構ってあげられなかったとき、貴女高熱を出したのに心配かけまいと黙っていたのよ。さすがに肝が冷えたわ」
まるで時間を取り戻すかのように過去に遡って思い出を語っていくエレノアに、フィオナは母からの愛情を感じていた。フィオナ自身が覚えていないような些細なことまで、事細かに覚えている。これが母親というものなのだろうか。覚えていないがゆえに初めて聞くようなそれらはとても興味深かった。時々挟まれるアルテリアの話も面白かった。
「レオナルド・マクラレンからのプロポーズを受けたときだって、貴女はいつもと変わらなかった」
ぽつり、とエレノアが呟いた。
レオナルド・マクラレン現侯爵、フィオナとアルテリアの幼馴染であり、フィオナの元婚約者である。領地が近いこともあり、フィオナとよく遊んでいた。幼い頃から大人びて淑女らしいフィオナにレオナルドが憧れを抱くのは、自然な流れであった。ローズ家は伯爵位の中では上位であったけれど、公爵や侯爵などの上級貴族とは差があり、両親ともに出世欲もそれほどなかったため、貴族の子息たちが集まるお茶会などに参加することはなかった。それゆえ、フィオナはレオナルドしか知らなかった。
だからこそ、一緒に育ち、王立学園に入る前に申し込まれたプロポーズを受けた。
「……わたし、たぶん、彼のことを好きになろうとしていたと思うの。彼の言う『好き』とわたしの『好き』は、違ったから」
レオナルド・マクラレンの言う「愛している」は、間違いなく愛情から来たものだったろう。しかし、それに頷いたフィオナは同じ気持ちではなかった。その違いがいかに大きく、歪か、フィオナはやっとわかったのだ。
頷いてはいけなかった。請われたからと、受け入れては。それでも、あの時はそれが幸せなのだと思っていた。
「それに気づけたのなら、貴女はきっと幸せになれるわ」
「……お母様は、どうしてわたしと彼の婚約を認めてくださったの?」
『運命の恋』に並々ならぬ想いがあるエレノアが、何故フィオナとレオナルドの結婚を認めたのか、それが疑問だった。幼いころから、「愛した人と結婚なさい」と言われ続けていたフィオナは、レオナルドと婚約をした。それこそエレノアに言わせれば、論外なのではないだろうか。フィオナがじっとエレノアを見つめた。
「貴女が愛そうとしていたからよ。愛せると思ったんでしょう、彼を」
「……そう、ですね」
幼馴染でよく知ったレオナルドとならば、いい家庭を築けると思った。温かな家族が作れると思った。しかしそれは恋でも愛でもなかった。きっと、愛とは後からついてくるものなのだと、そう思ったからプロポーズを受けた。学園生活は楽しかったけれど、結局婚約してからの二年間は、碌に会うことも出来ずレオナルドの辛そうな表情ばかりを見ることになったために、失う恐怖の方が勝りそんな感情を抱くことはできなかった。
「……お母様、『運命の恋』とは、どのようなものですか?」
幼いころから、何度も聞かされた母と父の恋物語。互いに想い合っていながらも、家の決めた婚約者が居るために想いも伝えられなかった二人だったけれど、先王からお触れが出て、紆余曲折あり結ばれたらしい。
エレノアはいつも言っていた、「一目みただけでわかったの」と。初めて夜会で出会ったときに、『運命』を感じたのだと。
「わたしには、わかりません。お母様やお父様、アルよりも大切な人が出来るなんて、想像もつかない」
胸を焦がすほどの恋、とはよく言うけれど、どんな本を読んだってそれを真に理解することはできなかった。本の中の登場人物たちは色鮮やかな感情を持ち、恋をして結ばれる。時に苦難はあれど、最後はハッピーエンド、そう決まっている。フィオナにとって、それは物語の世界のものだった。自分の身に起こるなんて、ひとつも思い描けない。
「いまはまだわからないから、『運命』なのよ」
「いまは、まだ」
「そう、いつも突然なの、それが来るのは。貴女にもきっと来るわ、そんな瞬間が」
不思議そうな表情を浮かべるフィオナを抱き寄せて、エレノアが言った。焦る必要はないと、本当に結婚がしたくなったらしなさい、といつも言い聞かせていた優しい声だった。その温かなぬくもりに包まれて、フィオナは目を閉じた。
わからない、……わからないけれど、知りたいと思う。
「わたしにも、あるのかしら、『運命』は」
「ええ、絶対に」
どこか遠い世界のものに思えていたその言葉が、目の前に降ってきたような気がした。物語の世界だけのものではない。いつか王子様が、なんて言うような年齢ではもうないけれど、もしも本当にそんな相手が居るのならば、会ってみたいと思った。自分の手を引いてほしいと、思った。
もうすぐ新月が訪れる。月のない空を見て、あの日を思い出さないときが、くるかもしれない。




