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第8話 支配のぞみ

「ごめんなさい」


 支配のぞみの薄紫色の頭頂部が、俺の視界を占める。

 自信なさげな可愛い声、俗にいう萌え声をした支配のぞみに俺は頭をさげられ、謝られていた。


「いや……」


 俺はこのような時、何を言ったらいいのかわからなかった。

 最初から断られる前提だと思っていたものの、いざ、目の前で本当に断られてしまうと、どう対応したらいいのか、まったくわからない。

 心臓の鼓動は早く高く、頭の中は真っ白になっていた。


 俺は朝起きた時から、今日はついていないなっと思っていた。

 空を見上げれば、限りなく透き通った青空の中心で、陽気に輝いている太陽すらも、俺の気分を晴らしてくれなかった。


 早朝、姉のカガミが起きる前に家を出ようとしたのに、運悪く目覚めてしまったことが、すべての原因だ。

 あの時、あの瞬間に、すでに俺の今日の運勢を決まっていたらしい。


 目覚めたカガミに、「どこに行くの?」と俺は訊かれた。

 髪は寝癖で爆発し、目の下に黒々した隈をつくったカガミは、寝起き早々、煙草を吸いだした。

 午前6時前に制服に着替え、家を出ようとしていた俺に、カガミが腹を立てているというのがピリピリと伝わってきた。


「あ~頭が痛いし、気持ち悪い。ねえ、アマちゃん、ちょっと背中をさすってよ」


 断れば、さらに面倒くさくなるのがわかったので、俺はカガミの望むままに、背中をさすってあげた。その後、三十分以上もカガミの中身のないたいていないを聞かさることになった。


「でね、その男ってば、私にお金をくれるって言ったの。でも私お金はいらないのよ。お金を簡単にもらうと安っぽい女に見られるでしょ。だから……このペンダントにしておいたの」


 赤紫色の宝石が付いたペンダントを俺に見せてくれた。ルビーなのだろうか。


 カガミは物をもらうことには抵抗を持っていなかった。寝室にはいろんな男からもらった、贈り物であふれている。

 ペンダント、服、ぬいぐるみ、イヤリング、指輪、下着―――目に付くだけでも、そういったものが何十とある。


「でも嫉妬しなくていいわよ。私はアマちゃんだけだから……」


 カガミは煙をフゥ~と吐き出し、俺に向かって微笑んだ。

 俺とカガミは血のつながった姉弟なのだが、

 俺は「そうだね」と呟いた。


「えへっ」


 カガミは恋している乙女のように頬を赤らめて笑った。

 ……実に気持ちが悪い。


「それじゃあ、俺、行ってくるよ」


 カガミの機嫌を取ったのち、俺は家を出て行こうとする。


「うん」カガミは笑いながら、俺に手を振ったが、「浮気したら許さないんだからね!!」と笑顔の後、剣呑した視線を俺に送っていた。


 そんなカガミとのつまらないやり取りのせいで、アリスのマンションへの到着が遅れてしまった。俺が、アリスを起こす等の義務を果たし、無事学校に着いたのは、普段よりも10分も遅かった。

 そのせいで、すでに俺たちよりも早く教室に来ていたクラスメイトから、微笑ましい目、また妬みを含んだ目で見られ、嫌な気分になった。


 俺とアリスは彼氏彼女のような微笑ましい関係ではなく、むしろ主従関係。

 もちろん、アリスが主で、俺は従。

 今日は、本当についていない。

 朝のカガミとの無駄なやり取りうんぬん、アリスを着替えさせた際、俺の制服に涎がついたこと等、通学途中に自動車にぶつかりそうになったことや、クラスメートの痛々しい視線、さらに、言語学の授業で当てられたことや、カラスの鳴き声をすでに6回も耳にしていること―――すでにこれだけのついていないことがある。


 ついていない。ついていない。ついていない。

 ついていないと思うには十分すぎるくらい、ついていない。


 なのに―――今日はついていないとわかりつつも、俺はアリスの提案どおり、屋上に上級生である支配のぞみを呼び出し、

バカにも告白をしたのだ。


 屋上のむき出しのコンクリートに視線を落としていた支配のぞみが、顔を上げる。


「気持ちは本当に嬉しいです。でもごめんなさい」


 二度目の謝罪。支配のぞみはいい子なのだ、と俺は思った。少なくとも、アリスやカガミよりは。


「いや、別にいいよ。なんとなく予想していたから……」


 これは振られる前提の告白。


「そうですか」


 支配のぞみは二重のくっきりとした目で俺の顔をじっと見つめる。まるで心の奥をのぞかれている気持ちになる。


「あの~~~アマド君って、瞳が黒く深い色を称えてて、綺麗なんですね。なんか湖の底を覗きこんでいるかのように、不思議な気持ちになります」


 突然、支配のぞみはわけのわからないことを口走る。


「ああ、そう……あれ? 何で俺の名前を知っているの?」


 俺は支配のぞみに自分の名前を言っていないのに、彼女が俺の名前を知っていることを不思議に思った。


「え? 知っていますよ。私、全校生徒の顔と名前はすべて頭に入れているんです。えっと、ですね、アマド君と初めて出会ったのは、5月7日の夕方4時16分、A棟2階女子トイレ前で、すれ違ったんですよ。あの時、私すごく、トイレに行きたくて、早足で、俯きながら歩いていました。アマド君はたぶん美術の授業へ行くために、教室を移動していたんだと思います。その初めての出会いから、今日までに12回顔を合わせています。あっ、でも、私が気づかないところでアマド君が私を見ているかもしれないから、その分は数に入れていません」

「そう……なんだ」


 俺はそんなに支配のぞみとすれ違っているなんて知らなかった。


 支配のぞみは、ストレートロングの髪型をしていた。前髪が切り揃えられ、間から眉毛がわずかに覗いている。瞼を頻繁に閉じるのが癖で、心の動きが動作や表情に現れやすいタイプなのだと思った。

 身長は俺の肩ぐらいまでしかなかった。俺の身長は男子の平均程度なので、支配のぞみは女子の中では小柄な部類に入るだろう。

 で、写真で見た通り、はちきれんばかりに大きな胸をしていた。実物を見ると、とてもFカップとは思えなかった。Gカップだと言われても、信じてしまうレベルだった。


「ああ、この胸ですか?」支配のぞみは両手で胸を包む。アリスとは違い、胸は両手からこぼれている。「すごく重くて、肩がこるんです。一応胸囲は87センチです。ウェストは女の子だから秘密にしておきます。でもお尻は88cmで教えることができます」


 支配のぞみは胸に集まった俺の視線に気が付き、訊いてもいない個人情報を話しだす。


「身長は153cmで体重は42kgなんです。私としましてはもう1kgほど減らしたいのですが、大好きなケーキに目がなくて、我慢できなくて、つい食べてしまうんです」

「……へ、へえ~」訊いてもいないことを次から次に話す支配のぞみに俺は面を食らっていた。「でも、そこまで、どうして俺に話してくれるの?」


 俺は率直に訊いてみた。


「そんなの、当たり前じゃないですか」支配のぞみは両手を後ろに組み、俺に顔を近づけ、笑顔で答えてくれた。「私のことに興味を持ってくれた人に、私のことをさらけ出すのはゴクゴク普通のことです。でも、ごめんなさいですけど、私は付き合わないことにしているんです。申し訳ないんですけど……」


 3限の予鈴が鳴った。


「あっ、もう授業が始まってしまいます。もっとお話しをしていたかったのに、すごく残念です。それじゃあ」


 支配のぞみは礼儀正しく丁寧にお辞儀をし、階段に下りて行った。胸が大きいせいか不格好な走り方をしており、途中で両手を投げ出しズデッとこけた。しかし、すぐさま起き上がると、何事もなかったかのように、再び走りだした。

 膝に何か所もバンドエイドが張ってあったことから、よくこけるのだろう。


「ころんだ時に、スカートがめくれて見えたパンツの色は、ピンクだったわね」


アリスが背後から声をかけてきた。

屋上のどこかに隠れ、俺と支配のぞみのやり取りを覗き見ていたらしい。


「どこから覗いていたんだ?」

「ピンクのパンツなんて生意気よ。きっと臭いに決まっているわ」

「…………」


 俺の言葉など聞かず、アリスはプンプンしている。

 よほど、ピンクのパンツがお気に召さなかったらしい。


 しばらく、アリスは支配のぞみのパンツについて、痛々しい感想を話し続けた。で、やっと、しんみりと、「残念だったわね。振られて……でもこれで、アマドも一歩大人に近づけたわけだし、私に感謝してくれてもいいわよ」とアリスは胸を張って言った。

 胸はないけど。


 アリスは計画が失敗に終わったことに悲観した様子もないことから、俺が振られることを予想していたようだ。


「まあ、振られたのは、しょうがないさ。で、これからどうするんだ?」


 俺が切り出すと、アリスは俺の両肩に手を置き、険しい目で、また真剣な眼差しを俺に向ける


「アマド!! あなたのあの子への気持ちはその程度だったの? たった一度振られたぐらいで、あの私よりも胸がない、残念なアバズレ女を取り逃してもいいって言うの? それでもアマドは男の子なの? ちゃんとオチンチンはついているの?」


 散々な言いようのアリスに、俺は突っ込むことをせず、冷静に切り返す。


「いや、でも振られたんだぜ。ならどうしろと……」


 アリスに肩を揺らされすぎて、頭が痛い。

 屋上のコンクリートは太陽の光に熱せられ、陽炎が揺らめいている。

 アリスは俺のその言葉を待っていましたと言わんばかりに、


「そんなの決まっているわ!!」アリスの目は好奇心で輝かんばかりの光を放っている。俺は、その光にゾッとした。「男なら、諦めることなく、アタックし続けるのよ!! それが男ってものよ!!」


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